「雪」。フルネームは「片山雪(かたやまゆき)」。この名前を私は忘れる事がない。
この同級生の女の子、雪についての思い出を本稿に記し、私見を述べたものである。
出会いの話をするのに、雪なんて呼んで、馴れ馴れしいかも知れないが、後にそう呼ぶことになるので、本稿でも雪に統一する。また、これほどに美しい名前に出会ったことは後にも先にもないと現在でも思っている。
雪が中学の水泳部にやって来たのは、1年の夏休み前のことだった。通常の場合、1年が4月に仮入部して、遅くとも5月半ばくらいにはどこかに落ち着くもので、7月に新入部員が来るのは凄く珍しかったことを記憶している。
雪と初めて会った日のことは、大人になった今でも鮮明に覚えている。雪は見た事もない先生に連れて来られてプールサイドに佇んでいた。
身長は140センチ台ほどで誰よりも小さかった。お顔は丸顔で、目も丸い。髪は運動部女子のようなショートヘアで、後髪をほんの少し結んで留めていた。いうなれば幼さが残るような顔立ち。
それだけ見ると小学生にも見間違われそうなのだが、それをさせないだけの身体的特徴を彼女は持っていた。水泳部の先輩の誰よりも、あるいは毎日クラスで見ている女子の誰よりも、明らかに大きな膨らみを華奢な身体に2つ持っていたのである。それは体操服の上からでもはっきりと認められ、色気溢れる曲線を描いていた。
雪を連れて来た先生と顧問の先生がしばらく管理室で話した後、練習の準備をしていた私たちを集合させ、新入部員の紹介となった。雪は顧問の先生に促され、「片山…雪です。今日から水泳部でお世話になります。よろしくお願いします。」と辿々しい、聞き取りにくいような大きさの声で皆に挨拶をした。
ただ、不思議なことに顧問の先生はいつもなら声が小さいと怒るのにそれをしなかった。その時の私は、「まあ女の子だからか……」と思って気にはしていなかった。顧問の先生は、「片山は2コースな。高井が助けてあげてな。』とだけ言った。
異例の措置だった。タイムも泳ぎ方も見ずにいきなり私の泳いでたコースに入れたのだから。
私はむちゃくちゃ嬉しかった。可愛い系でおっぱいのデカい女の子を独占できるという気持ちで一杯だった。
そんなわけで、私は2コースで雪と泳ぐことになったのだが、雪はあまり泳ぎが得意ではなかった。大会に出られる標準タイムはおろか、日々の練習でも1人だけ制限タイムを設けずに距離を泳いだらお終いという状況だった。
地方大会、私は予選敗退で雪はそもそも出られなかった。そして夏休みも終わりに近づいてきた。そんな8月下旬の話である。私はいつものようにぼんやりと時計を見て練習メニューのスタートに備えていた。その視界に25mをどうにか泳ぎきった雪が見えた。雪がゴーグルを外す。私は動きに釣られて彼女の方を見た。すると、彼女の右腋に何やら黒いものが引っ付いているのが見えた。
次の瞬間、「よーいハイッ!」私のスタートが来た。慌ててスタートするも、頭に疑問符を沢山浮かんでいた。そのまま50mを泳ぎきり、私はすぐさま同じコースで休憩している彼女を見た。
彼女はくたびれた様子でプールサイドに手を伸ばしていた。彼女を見たとき、私はさっきの黒いものが何であるかを理解することとなった。背の小さい、愛らしい顔をして、はあはあと息が上がっている彼女の両腋には、黒くて太い毛がしっかりと生えていたのである。
私は衝撃を受けた。それまで女性に腋の毛は生えないものと認識していたからである。当時まだ見た経験がなかった、女の人の大事なところを思わせる太くて黒々とした毛が、同級生の女子にしっかり生えているという事実に衝撃を受けたのと同時に、たった今見てはいけないものを見てしまったという、よく分からない背徳感が同時に怒濤の如く頭の中に流れ込んできた。
これらの入力を検知した私の思考回路は、心拍数を上げ、同時に水中に浸かっている男の部分を起動するという結論を導き出したらしい。
「え……こんな時に……」という心の声が、あと少しで野に放たれるところであった。
その日以来、プール納めまで、雪のすぐ横ですぐ立ち上がろうとする自分の男性自身との闘いに身をやつす日々が続いたと記憶している。腋のことは、誰にも言っちゃいけないと思い自分の中だけで止める事にした。
同じコースで泳いでいる雪は、女子はおろか水泳部の中でも謎が多い存在だった。練習はいつも途中から来て、最後までいる事が少なかった。しかしそれを顧問の先生も咎める様子がない。女子の先輩も話し掛けてはいたが、談笑すると言った光景は皆無だった。水泳部の女子が使うはずの競泳用の水着は持たず、スクール水着を着ていた。
そんな雪と私はいつも同じコースで泳いでいて、同級生の男子からは、「片山さんと代わってくれ」と冗談混じりに言われることが何度もあった。
季節は移り変わる。
プールサイドのソメイヨシノから、あらん限りの声を張り上げていたクマゼミは、いくらか鳴き具合が軟投派のツクツクボウシに交代し、その声も1匹また1匹と聞かれなくなった頃、水泳部にもプール納めの日が来た。
同級生の男子たちと、ふざけながらプールサイドや更衣室をデッキブラシで磨いていると、あっという間に陽が大きくなり、プール全体が真っ赤に染まった。
「プールに向かって礼!ありがとうございました!」
「しばらくスイムとはお別れやなー」などと皆で他愛もない話をしながら1人また1人と帰路に着く。私は職員室に近い正門を通って帰るのでいつもプールの施錠をする係だった。私としては、誰もいなくなったプールを見ながらドリンクの残りを飲み、椅子に座りながら5分程度ボーっとする時間が何より好きで、それはプール納めの日とて例外ではなかった。
ドリンクを飲み終わり、帰り支度を始めようとしたとき、私は女子更衣室の灯りがついているのを認めた。私は消し忘れかと思い、「誰か居ますか?鍵締めますよ」#ブルーと形ばかりの声掛けを部屋の中にした。すると中から音がした。私は驚いたが、先輩だろうと考えて、女子更衣室の一つ奥側にある男子更衣室の鍵を先に締めようと歩き出した。
その瞬間、背後からガチャリと扉の開く音が聞こえてきた。
「高井……!」
普段こんな時間に聞こえない声。ふだんは滅多に聞けないけど、いつも近くで聞いているのですぐ分かる声。
反射的に振り返ると、夏服に裸足で、日焼けと夕陽で赤く染まった雪がいた。
「片山さん……帰ったんじゃ……?」
「うち……戻って来た……本当は…いけないことだけど、高井に、これ、読んでほしい…じゃあね……」
今まで2ヶ月、同じコースで泳いで来たがここまではっきりと自分の言葉で話す彼女は初めてにした。そして、雪は私に水色の紙を折って作った小さな手紙を手渡したと思えば出口に向かって走っていった。
私は、予想などしていなかった出来事がこの数分で立て続けに起きたためか、夕陽が差し込む更衣室前の廊下でただ呆然としていた。何か二の句を言おうとしたが、雪は言うだけ言って、今や逃げるようにプールの門の外辺りを歩いている。手紙だけが残された。胸が100mのダッシュを泳いだあとのように早く打っているのが自分でも実感できた。
「まもなく、活動終了時刻です。校内に残っている生徒は帰りましょう……」
プールのスピーカーから下校を知らせる校内放送が鳴り響いたことで私は我に帰り、「夢でも見たのかもしれないから鍵を返そう」と考えて、戸締りをして職員室に鍵を返しに行った。けれども鞄の小さいポケットを確認すると、何度見てもうまく折られた小さな手紙が入っている。
「家に帰ってから読もう。女の子から貰う手紙は多分そういうもんだろう。」などという根拠もない考えがあって、私は手紙を読まずに、しかし大急ぎで校門をくぐり家路を急いだ。
家の玄関に差し掛かったときに、さっきの胸の高鳴りがまたやって来た。それをかき消すように2階の自室へと階段を駆け上がった。
そして、プール上がりの手や頭から落ちる水で手紙を濡らさないか確認して、母が2階に上がって来ないだろうということを確かめて、鞄の中の手紙を勉強机に出し、ひとまず外見を眺める事にした。
夕陽は傾き、蝉の声はやんでいる。私は意を決して可愛い手紙の折り込んである部分に手を掛けた……(続)