帰りの電車の中で、僕は明日に控えた国語学・現代語演習の発表の脳内シュミレーションを繰り返していた。
誇り高き今村ゼミ。日本語学のエキスパート。大・今村の寵児たち……
それが僕ら今村ゼミ生に向けられる視線だ。
同じくして今村教授も、ゼミ生に対する姿勢は厳しい。
もう既に3名ものゼミ生がこの発表で切り捨てられてきた。明日は、僕の番。
家に着くなり、誰もいない暗い部屋にただいまを言い、明かりもつけないままパソコンの前に座った。
レジュメの最終確認をする。
「おかえりーー!!」
飛び上がりそうになった。
真っ暗な部屋のソファでひとり、久美子が寝ていた。
「アハ、ビクってしちゃって。かわい〜」
ケラケラ笑いながら、久美子が部屋の明かりを灯した。
「何してるの〜?」
「明日、発表なんだよ。邪魔しないで。」
「む〜怒ってる?」
「シリアスな状況なんだよ。今村教授、マジで怖いって話したでしょ?」
「あー、ゼミの先生?うーん、私にはそういうアカデミックな話は分からないかな。どれどれ…テンス…とアスペクト…?」
久美子は、十人いれば十人が認める美人だった。
彼女に対するおしゃれだとか天真爛漫だとか、そんな評価はどれも核心を得ていない。
顔だ。
久美子は、もうどうしようもなく誰からも愛されてしまう顔をしている。
世の中に、中の上とか上の下とかいう九段階の評価の仕方があるが、彼女への顔の評価において、そういう相対評価は意味を成さない。
上の上では済まないくらいに久美子は可愛いのだ。
こればっかりは、何と言いかえようとしても、無理だ。
彼女は第一印象だけで誰からも愛されてしまう宿命を背負っている。
何もこれは、僕の恋人だからそういう言い方をしているわけではない。
恋は盲目というが、こればかりは違う。
久美子ばかりは、人間が想像できる可愛さの、その上を行く。
…もっとも、これは顔だけの話だが。
僕は知っている。
一見すると人の良さそうな可愛らしい“ゆるふわ女子大生”――あの「ぱるる」を、少し垂れ目にして、人当たりの良さそうな感じにしてさらにもっと磨いたような具合の顔をしている――なのだが、ふとした時に見せる力の抜けた顔が、いかにも気の強くて意地の悪そうな顔をしていることを。
「テンスとアスペクトっていうのは、時制に関わる付属語のことだよ。まぁ久美子には一生縁がない用語だろうけど。」
「馬鹿にしてる?」
「ちょっとね。」
「もういい。今から拗ねる。」
「いまレジュメの最終チェック中だから、それ終わったらアイスでも食べよう。」
「食べる!」
先ほど久美子はゆるふわ女子大生と言ったが、そう見えるというだけで、実際は昼間は医療系の事務をしているOLだ。
同い年だが、商業科の高校を卒業してすぐ就職している。
冷凍庫を漁る久美子を横目に、僕は適当に最終チェックを済ませ、プリンタに出力した。
「タヒチバニラ!!」
「ラムレーズンもあるけど。」
「サクサクの方がいい!!」
久美子はハーゲンダッツのラムレーズンが好きで、僕の家には常にストックがあった。
タヒチバニラは僕が食べるために買っておいたものだけれど。
「今日はどこ行ってたの?」
「友達と名駅で飲んでた。…これ先週話したけどなあ。」
そう言うとすぐ、久美子は顔を近づけ、僕の耳元をすんすん嗅いだ。
「うーん…女の匂いがするけどぉ…?」
「汗かいたから、女の匂いは流れ落ちたと思ってたんだけどな…」
「そういうのいいから。…で?」
久美子は、バカじゃない。賢い。目ざといし、勘がいい。
母親譲りだと思われるその賢さに、僕はこれまで幾度となく苦しめられてきた。
一応断っておくが、僕の耳元から女の匂いなぞしたはずはない。
「で、って…高校の頃の友達と飲んでただけだよ。そりゃ女の子もいたけど、なんてことは無い飲み会だよ。みんな綺麗になってたなぁ。」
「タクシーで帰ってきてた。電車まだ動いてるのに。」
「電車動いてる時間に帰ってくる浮気はないと思うよ。」
「私も、”まだ”浮気はしてないと思うよ。」
「信頼ないね、僕。アイス溶けちゃうよ。」
「あとそれ。口数も多い。」
「僕はもとから結構お喋りな方だと思うよ。」
「そうだけど……女のカン。」
「………分かったかもしれない。」
「…へ?なにが?」
「こういうことか。」
僕は久美子を抱きしめて、キスをした。
久美子の匂いがする。甘いけど、爽やかな匂い。
僕の中枢をピリピリと刺激する甘い匂いが。
「んっ……ちょっ……あっ、もう……んっっ……」
久美子も僕にしがみついてきた。
親鳥に給餌される雛鳥のように、必死で唇を求めてくる。
「んっ…ふっ……ああん……湊クン……」
ブラウスのボタンを外していく。
久美子は無抵抗で、むしろ外しやすいように無い胸を張っているように見えた。
「んっ…。白だ。やっぱり正解だった?」
「白じゃなくて薄ピンク!!」
「刺繍が良いね。」
「…うるさい。」
「まあもう外しちゃうけどね。」
久美子の下着のセンスは確かに良かった。
たぶん、それなりに良いものを買っているのだろう。
女性の下着に対して、反応こそ薄いかもしれないが、男は興味津々である。
僕は特にそうで、自分に見せるために買ってくれた(しかも女性ものの下着というのはなかなか高い買い物だ)モノに、僕は敬意を払わずにいられない。
そんな風に反応するとキモがられるので、普段はそっけないふりをしているけれど。
「あっ、もう…」
「可愛いよ。」
「…こういう時だけ言うんだから」
小ぶりな胸をふにふに弄ると、久美子はすぐ身体を縮める。
「うぅ……あぁぁ………うぅっ……」
「綺麗な背中してる…」
「うぅ…うるさい………っっ…ひゃぁぁ…」
綺麗なうなじに吸い込まれるようにキスをした。
何度も口先でつついて、深く息をした。
久美子は身体を反らしながら嬌声をあげた。
「ひゃぁぁっっ…!!あ…ぁ……う……ぅ…」
片手を久美子のショーツに忍ばせ、薄い恥毛の向こう側を探った。
「ああっっ!!ダメ…!!うっっ……」
もうヌルヌルで、滴るくらいだった。
「うわ、凄いことなってるよ。」
「うるさい!!!……ひゃぁうぅぅ!!」
「挿れちゃおうね。」
そのまま久美子のショーツを脱がせ、ソファの上で二人、向き合った。
「ゴムゴム……」
「無くていいよ…」
「最近そればっかりだけど、困るのは久美子の方だよ?」
「困らないし…」
目を横に逸らし、やさぐれた女子◯生が万引きの言い訳を吐き捨てるような口調で言った。
久美子は前々から、仕事をやめてさっさと専業主婦になりたいと言っていた。
ところで実際のところ子供ができて困るのは学生の僕もなのだが、男の方が困るとはどうも言いづらい。
「たしかあそこに……」
ガシッ、っと久美子が僕の手を掴んだ。
「中に出さなければ、たぶん大丈夫な日だから…」
そんな日あるのかよと思いながらも、膝を折ってソファに座りながら、上目遣いで生セックスを懇願する久美子にやられて、僕は完全にその気になってしまった。
「後ろからがいい…」
聞こえるか聞こえないかギリギリの声でそう言ったと見えて、僕は久美子をソファに掴ませた。
久美子は全体的に細身だが、お尻だけは割と普通…というか、なんとも男受けする具合だった。
「ぁ……キたぁぁ……」
くびれた白い腰周りがビクビクっと痙攣した。
・・・
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
暫くの間、僕らは二人で息を切らした。
2
明日香1
ご飯の炊ける匂いで目が覚めた。
「あ、オハヨー。」
久美子は、寝起きが良かった。
「なに作ってるの。」
「なにって、朝ごはんだけど。」
久美子は案外料理上手だった。
料理上手というと、どうも男受けを狙った「にわか」が多いけれど、久美子に限ってはそうでも無い。
片親の長女で、育ち盛りの弟たちのために毎晩ふるっているという料理の腕は確かなものだった。
「…ありがとう。」
「大事な発表なんでしょ?ちゃんと腹拵(ごしらえ)えしなきゃ。」
朝食の配膳をしながら、天使のような笑顔でそう言った。
炊きたてのご飯に焼き鮭、菜っ葉のおひたし、豆腐とわかめの味噌汁に納豆という完璧な朝食を摂り、先に家を出る久美子を見送ってからシャワーを浴び、僕も学校へ向かった。
・・・
「以上…です。」
拍手が巻き起こった。
今村教授を含む聴衆数名が質問をし、その度に適当な回答をし、それから教授がうんうんと一人で何度か頷き、
「コレはオモシロイ発表だよネエ…。付属語に注目するマデは良いンだけど、ソコからコノ変わった事例をミツケテきたノガ実にオモシロイよ…。昨今、コウイウ、「〜に関して」ミタイナ、接続助詞トイウカ、副助詞っぽくツカウ言葉…ウチの学会では機能語ナンテ言っタリするケド…の研究は学会でもトレンドだからネエ…。なかなかオモシロイ発表ナンジャナイノカナ、コレは、ウン。」
今村教授は、いつものその独特な癖のある喋り口で、満足げにニタニタしながら僕の発表に賛辞を贈った。
受講者からの尊敬の眼差しを浴びながら僕は、溶けた鉄のように煮えたぎる自己肯定感が、体内をせり上がってくるのを感じた。
その日の講義を終えると、僕はルンルンでひとり駐車場に向かった。
「発表、すごかったですね!」
「うん?」
駐車場の自販機の前でどのコーヒーにしようか逡巡していると、文学畑の二年である宮原楓花(みやはら ふうか)が話しかけてきた。
「ああ、楓花ちゃん。うん、ありがとう……なんでこんなところにいるの?」
「私も帰りだったんですけど、さっきちょっと見かけて。あ、クルマですか?送ってってくださいよー笑」
宮原楓花は、まあ、平たく言えば文学部のマドンナだった。
とはいっても、ウチの大学でのマドンナとは、一般的な大学でいうところの良いとこ上の下なもので、この子に関しては巨乳で肉付きよく、身体つきは良かったが、正直言って久美子にはかなり劣る。
そしてその久美子は勘がいい。
「ヤダよ。悪いけど急いでるんだ。僕ってこう見えて忙しいからね。」
ハハハと半分笑いを混ぜながら言って、逃げる準備をした。
「え〜絶対ウソですよ〜。…前々から思ってたんですけど、先輩ってなんでそんなお洒落なんですか?ウチの大学でそんなお洒落な人って他にいませんよね…?」
排卵日か!!…とツッコミたくなるほど不気味なプッシュに軽く引いた。
これは中◯生の時に知ったのだが、同じ学校の人間と付き合うのは、とってもリスキーなことだ。
「お洒落っていうか、着たい服を着たいように着てるだけだよ。ゴメン、今日は本当に急ぎなんだ。また今度お茶でもしよう。」
「…約束ですよ!」
僕は半ば逃げるようにして車の方へ向かった。
宮原楓花の膨れっ面は、ちょっと可愛かった。ちょっとだけ。
「あ、湊くん、いらっしゃい笑」
宇野実彩子を知っているだろうか。知らない人は知らないだろう。
でもAAAの名前くらい聞いたことあるのではないだろうか。
あの「いやあいつら穴兄弟やろ…」というようなグループである。
その女性メンバーの一人が、宇野実彩子。
なんともなまめかしい感じの女性で、まあエロい。
宇野実彩子は少し下品なのが顔にも出ていて、それはそれで良いのだが、その宇野実彩子からそういう下品な要素を抜いて、少し清潔にした風なのがこのカフェのオーナー店長の、山口明日香(やまぐち あすか)である。
「あ、山口さん。こんにちは。」
「フフ、こんにちは。」
既に四十の手前なのだが、ずいぶん綺麗な人だ。
「お昼ゴハン、まだなんです。サンドウィッチまだありますか?」
「うんうん、あるよ。ちょっと待っててね笑」
しばらくして、盛り付けや、お皿まで美しいサンドウィッチのプレートが出てきた。
「アイスコーヒーでいい?」
「あ、はい、お願いします!」
「フフ、ちょっと待っててね笑」
この人は、もう本当に可愛らしいお姉さんという感じだ。
そしてこのサンドウィッチも本当に美味しい。
スモークサーモンが挟まっているのだが、これが最高に美味いのだ。
程よく脂ののった身は濃厚で、適度な塩味がオニオンベースのクリームとよく合う。
サニーレタスは、そんなサンドを爽やかに引き立てるだけでなく、彩りも与えてくれる。
「超美味しいよ山口さん!」
まるで我が子を見守るような穏やかさで山口さんは僕を眺めていて、どうも気になった。
「今日の予定は…?」
急に大人の色香を放って、艶っぽい声で僕の耳元で囁いた。
他の客はまるで気付いていないようだった。
「バイトが…10時まであります…。」
背筋が伸ばされて、何か魔法にかかったように口がそう動いた。
「じゃあ、10時半にいつものとこでね笑」
美魔女。それが山口さんの正体だ。
僕はまたルンルンでカフェテラスからの帰路についた。
時刻はもう夕刻で、習い事らしいバレエダンスの、長い髪を団子にまとめた女学生たちが群れて歩いている。
・・・
火曜日はまず、久美子はウチに来ない。
母親の帰りが遅く、弟たちの面倒を見なければいけないからだ。
駅前ロータリーの時計の下、眼を凝らすともう山口さんは居た。
「すみません、遅れちゃって…」
「いいよ。それよりも、乗っていい?」
「もちろんどうぞどうぞ。」