「今日母さんが迎えに来るんだけど、お前も一緒に乗ってく?」
塾も終わり帰り支度をしている最中、俺は結衣に声をかけた。
「え、本当?じゃあそうしよっかな〜」
結衣とは家が近いこともあって、幼稚園ぐらいの頃から家族ぐるみの仲だ。といっても小さい頃から俺は男子と、結衣は女子と遊んでばっかだったから本当に仲がいいのは俺らより親の方だけど。
そうは言っても仲が悪いわけではないので、こうしてどっちかの親が来る時はそれに相乗りさせてもらうこともある。
「あー、ごめん。今の時間だと10分ぐらい待つことになりそうなんだけど……」
スマホを確認したら、まだちょっと約束の時間には時間があった。それでも乗ってく?と目配せすると、結衣は少し悩んでから頷いた。
「──じゃあ行こっか?」
お互いに支度が終わると、揃って1階へと降りた。途中で同じ教室の奴に冷やかされたりしたけどそれは割愛で。
「──あんたのお母さんが来るのって何時?」
「9時って言いたいけど、いつもなんだかんだで遅れるからなぁ。まあそんな感じ」
「ふ〜ん、そっか」
「うん、そう」
外はあいにくの雨で、2人並んで傘を差しながら取り留めのないことを話していたが、いつの間にか会話も途切れてしまっていた。もともとそんなに話す仲でもないのだ。
だからそんな状況でそれを言うのには、本当に勇気が必要だったと思う。もしくは、そうしなければならないほどに緊急だったとか。
「ねえ、圭。……ちょっとトイレ行きたい」
「あっそ。塾戻れば……って、もう締めてるか」
「うん。そこのコンビニってトイレないよね?」
うちの塾は授業が終わればさっさと教室を閉めてしまうので、また開けてもらうのには相当手間がかかる。結衣が指したコンビニも、確かトイレはなかった。それで昔、漏れそうになったみたいな話を男子から聞いた覚えがある。
「あと少しで来ると思うから……待てる?」
頷いた結衣の表情は、ほんの少し苦しそうだった。それでも俺にできることはなく、ただ母さんが早く来るよう祈っていた。
言い出した頃には既に相当キていたのだろう。結衣は隣に俺がいるにもかかわらず脚をすり合わせ、吐息も時々漏らしていた。
といってもそれは痛みを堪えるようで、聞いているこっちまで苦しくなりそうな声だった。
「少ししゃがんだらどうだ?あと、傘差しといてやるよ」
同い年の女子、それも幼馴染みたいな奴のそんな姿はあまりに異様で、俺はなんとかできることを探した。
結衣は小さくありがとうと溢し、俺の言う通りにした。結衣が雨にかからないように傘を持つと肩がはみ出たが、そんなことはどうでもよかった。
「もう10分以上経ってる……早く来てくれよ母さん」
「やっぱ圭って見た目より優しいよね」
姿勢が変わって落ち着いたのか、結衣はそんなことを口にした。ひとまず安心だ。
けど、見た目よりってなんだよ。まるで悪人顔みたいな言い方をする意を唱えようと、結衣の方へ視線をやった。けれど結衣の姿を見た俺は、文句が出てこなかった。
しゃがんでいる結衣が俺を見るためには必ず上目になる。そしてさっきまでとは違い、脚をすり合わせようとすると一緒に体がくねる。それに加えて思わず出てしまっている吐息。
こんな時にこんなことを思うのは不謹慎かもしれないが、結衣の姿はとても扇情的に映ったのだ。
「ん?どうしたの?」
いつまでも黙ってる俺を不審がって結衣は首を傾げた。その様は余計可愛く見えたが、ずっと無言というわけにもいかないのでどうにか返事をしようと言葉を探した。
すると、運のいいことに丁度こっちに向かってくる車が見えた。
「あっ、車来たぞ。しかもあれ、母さんのだ」
「えっホント?よかったぁ〜」
後ろめたい気持ちを捨てて、俺はやっと来た母さんに、結衣がお腹痛くて困ってるからトイレがあればすぐ寄って欲しい、と耳打ちして車に乗った。
母さんも結衣の表情から察したのか、無駄話をせずすぐに車を発進させた。運転も普段より少し急いでるようだった。
あとは、どこか適当なところに停めるだけ。
やることをやった俺はそんなふうに楽観視していたのだが、ここで予想外の事態が発生した。とっくに信号は青になっているのに、ほんのちょっとしか車が進まないのである。
「なぁ母さん、もしかして渋滞?」
「そうなのよ。さっき見た時も混んでたんだけど、それよりひどくなってるみたいね。結衣ちゃん、大丈夫?」
「あ、はい…。たぶん、大丈夫です」
隣に座る結衣の大丈夫には力がなかった。渋滞と聞いてから顔はどんどん暗くなっていて、今にも泣きそうなようにも見える。結衣のそんな顔を見るのは、きっと初めてだろう。
「ホントにやばくなったら言えよな。なんとかするから」
「なんとかするからって、圭に何ができんのよ」
「えっ、いや、それは……」
「ふふっ、じょーだんだって。そういえば、災害用とかのトイレとかある?」
虚勢かもしれないが、結衣の元気な声を聞けてほんの少し安心した。さっきの顔は本当に見ていられなかったから。
ただ、この車に非常用トイレはなかったと思う。母さんにも聞いてみたが結果は同じだった。
すると今度は「じゃあ、ビニール袋ない?」と聞いてきた。
「ビニール袋も……丁度切らしてるわねぇ。ごめんね、あと少しだと思うから」
そんなことを聞くなんて、結衣も相当切羽詰まってるのだと思ったが、母さんのない発言を聞いても結衣の声は、少し弱々しいとはいえ依然として軽やかだった。
それがとても不思議で、さっきまではいざと言う時に見えないよう視線を外していたが、思わず結衣の方を見てしまった。そして気づいた。
結衣の異常なまでに緩んでいる表情。
そして、月明かりに照らされ黄色く濡れて煌めく車のシートに。
「あ…気づいちゃった?ごめんね。我慢…できなかったんだ」
「いや…別に…その」
言葉が詰まる。もし起きたら慰めようと思っていたのにそれができない。
俺はただ、結衣が涙と共に溢れさせているものを、ただ見ていた。
それ以外のものは全て意識から外れ、ただそれだけをじっと見つめていた。
それからのことは、あまり記憶にない。
覚えていることといえば、雨音の奥で微かに響く水音と、出し切った後のやるせなさと心地良さが混じったような結衣の表情だけだった。
家に帰ってから話題に出すのも気が引けたので、あの後どうなったのか俺は知らない。
俺の脳裏には、月下に輝く結衣以外、何も残っていなかった。