まだ◯学生で田舎に住んでいた頃、ボクは街の小さな塾に通っていた。
その塾は学年に関係なく大広間で学力別のプリントをもらい、自分で問題を解いて先生に採点をしてもらって、合格ラインに達すると勝手に帰っていくという奇妙なシステムだった。
先生は授業をして教えてくれるわけではなく、学校で習っていないことだったりすると生徒同士で教え合うということになっていたので、騒ぎさえしなければ私語も許されていた。
奇妙なシステムだったが、何故かそれなりの学力はつくので、ボクは小◯生の頃からそこに通わされていた。
友達にその話をしたら変な塾だと思われたようで、知り合いはほとんどおらず、周りには小◯生のガキんちょばっかりで、塾に着くと黙々と問題を解いて、いかに早く帰っていくかというのがボクの週に2日の日課だった。
中2の夏休みが終わった頃、珍しくボクと同じ中学校の制服を着た女子生徒2人がその塾に通い始めた。
そのうちの1人が凄く綺麗な女の子で、その子が初めて大広間に入ってきた時には、思わず二度見してしまったほどだった。
先生と何を話しているのかが気になって、ボクの顔は別の方向を向いているのに全神経が耳に集中していた。
漏れ聞こえて来る声に神経を尖らせて聞いていると、どうやら3年生のようだった。
綺麗な方の子の名前がナツミと聞こえた。
もう一人も続いて名乗っていたが、どうでも良かった。
二人は同じクラスの友達で、高校受験を前に塾に駆け込んできたという何とも呑気な感じの二人だった。
それからは俄然、塾に通うのが楽しくなった。
学校で二人を見かけることもあったが、学年が違うので当然にクラスも違う。
そこへいくと塾は学年に関係なく大広間で好きな席について問題を解くだけなので、二人がたまたま近くに座って時々クスクス笑いながら勉強をしていると、問題に集中できなくて困った。
ボクは自分の中で勝手にその子のことを”なっちゃん”と呼んでいて、いつか話ができたらいいな、などと夢想しては日々を過ごしていた。
そんなある日、二人の声がボクの耳に届いた。
「ねぇ、ナツミぃ、これどうやって解くんだろう」
「そんなの私に聞かれたってわからないよ」
あまり深刻さは伝わってこなかったものの、二人の会話を聞いているとどうやらボクにも解けそうな問題のようだった。
ボクは思わず、二人に声を掛けていた。二人というよりも綺麗な方の子に。
「あの、なっちゃん。見せてもらってもいいかな」
思わず自分の中で呼んでいる呼び方をしてしまい、しまったと思ったが慌てては余計に格好が悪いと思って、平静を装った。
イヤな汗が脇の下をどっと流れていたのは、言うまでもない。
最初は怪訝そうな表情を見せていたなっちゃんだったが、ボクの制服についた校章と襟章を見てニッコリ笑うと、
「同じ学校の人だよね」
と言ってプリントを見せてきた。
問題はボクが最近学習したばかりのものだった。
「これはね・・・」
さらさらと問題を解いてみせると、二人は顔を見合わせて、
「すごぉーい!」
と驚いて見せた。
“いや、ボク、学年一個下なんだけど、二人とも高校受験大丈夫?”
そう思ってしまったが、口にはしなかった。
そんなことがあってから、いつもではないのだけど、席が近くになったりすると二人と話をするようになり、それまでは早く帰ることに命を賭けていたのに、彼女たちのペースに合わせてワザとゆっくり問題を解くようになっていた。
帰るタイミングが一緒になったりすると、ボクは自転車を押しながら彼女たちと一緒に歩いて帰り道の途中までのお喋りを楽しんだ。
なっちゃんに淡い恋心を抱いている自分に気がついていたけど、来年は受験だし、女の子に現を抜かしているわけにはいかないと自分の中で気持ちに蓋をしようとしていた。
そんなわけで彼女たちの受験シーズンも終わり、ボクからすると二人は奇跡的に無事に公立の高校に受かると、あっという間に彼女たちの卒業式の日を迎えた。
卒業式が行われる中、なっちゃんに一言
“おめでとう”
と言いたくて体育館の外で待っていたら、二人は目ざとくボクを見つけて、きゃあきゃあ笑いながらボクの前にやってきた。
「卒業おめでとう」
「それは私にも言ってくれてるのかしら」
一緒にいる友達が茶化して見せた。
「もちろんだよ」
心の奥底を見透かされて焦ったボクは、少し慌てていった。
するとなんだかおかしな空気になって、なっちゃんが何かを言いたそうにモジモジしてた。
さらに沈黙が流れると、
「ああ、もう焦れったいなぁ」
友達がそう言って、
「この子がねぇ、田中くんの第二ボタンが欲しいんだって」
“えっ?それって逆じゃないの?卒業していく先輩の制服の第二ボタンを後輩の女子がもらうんじゃないの?”
そんな風に思ったが、ボクの手は自然に胸の第二ボタンに伸びていて、勢いよく引っ張るとブツという音がしてボタンが取れた。
力任せに引っ張ったものだから、ボタンの裏についた糸を通す輪っかが曲がってしまった。
制服の生地の方が破れてないか途端に心配になったけど、そんなことはおくびにも出さずに、僕はなっちゃんに向かってボタンを差し出した。
「ほら、受け取りなよ」
友達に促されて、おずおずと手を伸ばして見せたなっちゃんにボタンを渡すと、
「ほら、ナツミも渡すものがあるんでしょ」
そう言って友達がせっついてみせた。
なっちゃんはセーラー服の胸のポケットから二つ折りにした小さな紙を取り出して、遠慮がちにボクの方に差し出した。
紙には女の子らしい綺麗な文字で住所と携帯の電話番号が書いてあって、一言
“好きです”
と添えられていた。
それを見た瞬間、ボクは舞い上がってしまった。
思いもよらないなっちゃんからの告白を受けて、飛び上がるほど嬉しかったくせに、ボクの口をついて出た言葉は、
「ボク、来年受験だし・・・」
だった。
なっちゃんの顔に落胆の色が現れ、友達は呆れたようにただボクを見つめていた。
気まずい沈黙が流れて、ようやく口を開いたのは友達だった。
「・・・田中くん!それはないよ!ナツミのことなっちゃんて呼ぶくせに・・・。私のことなんて名前で呼んだこともないじゃん。そんなの、女の子は勘違いするよ!」
ボクは自分の口をついて出た言葉を訂正しようと慌てたが、後の祭りだった。
「ナツミ、こんなヤツ放っておいて、行こ」
友達は怒った目をしてなっちゃんの背中を押すと、なっちゃんは少し潤んだ目をして軽く頷くと、くるりと背を向けてボクをおいて去っていった。
ボクはしばらく呆然とその場に立ち尽くしていた。
春休みの間に電話をしようと、悶々とした日々を過ごした。
けど、意気地なしのボクにはたった一本の電話が掛けられなかった。
そんな風に春休みを過ごしてしまったボクは、しばらくはショックで立ち直れなかったけど、三年生になってからは受験生として毎日が忙しく、あっと言う間に一年が過ぎていった。
ボクは第一志望の高校に合格し、桜の花の咲く中、高◯生になった。
それまでの自転車通学から定期券を持った電車通学になった。
なっちゃんのことも時々思い出してはいたけど、どうしようもなかった。
電話番号を書いた紙は後生大事に持っていたけど、今さら電話をかける勇気はなかった。
通学沿線にはたくさんの学校があって、電車にはいつもいろいろな学生服を着た学生が乗り込んできたり、降りて行ったりしていた。
夏が過ぎ、ツクツクボーシの声も聞こえなくなった二学期のある日のこと、ボクが立っていた電車の扉の一つ向こう側に、綺麗なんだけどアンニュイなオーラを全身に纏った金髪の女子◯生が立っていた。
どこかで見た顔だと思ってついジロジロ見ていたら、目が合ってしまって、慌てて目を逸らしたのだけど、次に目を上げた時には女の子が目の前に立っていた。
“やばい、絡まれる!”
ボクは咄嗟にそう思って、自分の不用意さを悔いた。
「田中くん、志望校に受かったんだ」
目の前に立った女子◯生はボクを名前で呼んだ。
誰だか思い出せないという表情を浮かべていたボクの顔を見たのだろう。
女子◯生は、小さく溜息を吐いて見せて、
「ナツミのことは覚えていても、私のことは忘れちゃった?」
そう言われてようやく相手がいつもなっちゃんの隣にいた友達だと気がついた。
「ワカちゃん?」
咄嗟になっちゃんが呼んでいた呼び名が口をついて出た。
名前を呼ばれて、相手はちょっと面食らったような驚いた表情をして見せたが、直ぐに気を取り直して、
「なんだ、名前は覚えててくれたんだ・・・、へぇ」
と意外そうに言ってみせた。
でも、ワカちゃんがこんなに綺麗な子だとは思っていなかった。
中学時代はずっとメガネを掛けていて、今より10キロは太っていたと思う。
当然に髪は金色ではなかった。
「元気だった?」
そう聞いてみると、ワカちゃんは少し意地悪そうな目つきになって、
「それって、ナツミのこと?それとも私のこと?」
と聞き返してきて、ホントはなっちゃんのことだったけど、
「ワカちゃんのことだよ」
と答えた。一瞬、言葉に詰まったように間が空いて、
「うん、元気だよ」
ワカちゃんはそう答えた。
けど、それ以上は何を話したらいいのか判らなくて、沈黙が続いた。
するとワカちゃんは、ボクのことをジロジロ見ながら、
「それで?受験は終わったのに、どうしてナツミに連絡してこないのよ」
「えっ?」
「”えっ?”じゃないよ。ナツミはずっと田中くんからの連絡、待ってたんだよ」
ボクが驚いて何も言えずにいると、
「あれからナツミは、”受験が終わったら田中くんはきっと連絡をくれる”、そう言ってずっと携帯ばっかり気にしてたんだよ」
ボクはなっちゃんがボクの本当の気持ちを見抜いてくれていただけで嬉しかった。
けれど、ちょっと気になっていた。
ワカちゃんは全部過去形で喋っている。
「あの、なっちゃんはどうしてるの?」
ボクはワカちゃんの機嫌を損ねないように、遠慮がちに聞いてみた。
車窓の外に目をやりながら、ワカちゃんはしばらく黙っていたけど、ようやく口を開いた。
「死んじゃったよ」
「えっ?」
ボクは自分の耳を疑った。
「ずっと入院してたんだけど、春が来る前に逝っちゃった」
ボクは頭の中が真っ白になった。
ワカちゃんから聞いたところでは、なっちゃんは高校に入ってしばらくすると、悪い病気に掛かって直ぐに入院し、ずっと闘病生活を続けていたらしい。
ワカちゃんがお見舞いに行くと決まってボクの話題になって、なっちゃんはいつもいつもボクの身を案じてくれていたらしい。
「もうそろそろ合格発表の時期だよね。田中くんどうだったのかな」
ワカちゃんとそんな話をした後、なっちゃんは眠るように逝ってしまったという。
ショックのあまりボクは涙も出なかった。
でも、やっとの思いでその週末になっちゃんのお墓に連れていってもらうことをワカちゃんと約束して、ワカちゃんとは別れた。
お墓参りの前日、なっちゃんからメールが届いた時は心底驚いた。
化けて出たのかと恐る恐るメールを読むとワカちゃんからだった。
『明日、予定通りで大丈夫?』
どうしてなっちゃんの番号からワカちゃんのメールが届くのか解からなかったけど、ちょっと怖かったので、一言、『り』と返しておいた。
待ち合わせの場所に着いてみると、ワカちゃんはもうボクを待ってくれていた。
「おはよう」
「おはよう」
「あんまり寝てないって顔してるね。酷い顔してるよ」
そう言いながらワカちゃんは目的地に向かう電車のホームを指さして、歩き出した。
一時間ほど電車に揺られている間に、ワカちゃんからなっちゃんの話をさらに聞いた。
「ナツミはずっと、『田中くんは照れていただけだと思うの』って言ってた。そうなの?」
ボクは今さら嘘を言っても仕方がないと思って素直に頷いた。
「へぇ、そうなんだ・・・」
ワカちゃんはなっちゃんが入院してしばらくしてから願を掛けていて、大好きな甘いものを食べるのを控えていたらしい。
「半年以上、甘いものを食べずにいるとね、ナツミが死んでからも食べたいとは思わなくて、結構痩せちゃった」
道理であの頃のワカちゃんの面影がないわけだった。
「ナツミが死んでから、ご両親にお願いしてナツミの携帯番号を譲ってもらったの」
「どうして?」
「田中くんから連絡があったら、ナツミのこと伝えてあげないと、って思ったの」
ボクは項垂れるしかなかった。
「それなのにちっとも連絡してこないんだもの、このバカ」
ボクはワカちゃんに何も言い返せなかった。
電車を降りて、線路沿いに銀杏並木をどんどん歩いていくと、すごく大きな墓地が目の前に現れた。
ワカちゃんはもう何度も訪れているのか、慣れた足取りでお墓の間を通って進んでいった。
なっちゃんの家のお墓はとても立派だった。
ボクとワカちゃんは墓地の入り口で買ったお供えの線香とお花を供えると、なっちゃんの墓石の前に立って手を合わせた。
“なっちゃん、お見舞いにもいかずにゴメン”
ボクはなっちゃんのお墓の前で随分長い間、手を合わせていた。
「ねぇ、ナツミと何を話していたの?」
帰りの電車の中で、ワカちゃんはボクに尋ねてきた。
でもボクはそれには答えずに、黙って照れた笑いをするしかなかった。
しばらく世間話をしていたのだけど、前の日に眠れなかったせいか、揺られる電車の中でボクは眠りに落ちてしまった。
夢の中でなっちゃんが笑っていた。
今度こそなっちゃんとお喋りをしようと話しかけた瞬間、電車が大きく揺れてボクは目を覚ました。
気がつくと、ボクはワカちゃんの肩を借りて眠っていたらしい。
「ほら、みっともないから涙を拭きなよ」
ワカちゃんにハンカチを差し出されて初めてボクは自分が夢の中で泣いていたことに気がついた。
朝の待ち合わせ場所まで戻ってきたところで、ボクはワカちゃんに言った。
「今日は、ありがとう」
「田中くんも元気でね」
ワカちゃんが胸の前で小さく手を振った。
ボクは家へと向かう電車のホームに向かって歩き出した。
ホームの階段を上がる時、ふと待ち合わせ場所を振り返って見ると、ワカちゃんは同じ場所にずっと立ったままボクを見送ってくれていた。
ボクが手を振ると、ワカちゃんは頷いたような気がしたが、遠すぎてよく解からなかった。
でもボクは、妙にすっきりした気分になっていた。
ボクはそれからも辛いことや嫌なことがある度に、1人でなっちゃんのところへ行った。
あっと言う間に正月が過ぎて、高◯生活の一年目を終えた春休みの初日、ワカちゃんからメールが届いた。
『明日、ナツミの命日だけど、一緒にお墓参りにいく?』
『行きます。半年前と同じ時間に同じ場所で』
ちょっと不親切かなと自分でも思いながらそう返したのだけど、ワカちゃんからのメールはなかった。
“ワカちゃん、あれでわかってるのかな?”
自分で漠然としたメールを送っておきながら、ちゃんと待ち合わせ場所にワカちゃんが来るかどうか不安だった。
今でもどうしてあんなメールにしたのか、自分でもわからない。
約束の時間に待ち合わせ場所に着いてみると、ワカちゃんの姿はなかった。
“ちぇっ、わからないなら聞けばいいのに”
自分勝手に口を尖らせて、ワカちゃんに毒づいていた。
携帯を取り出してふと顔を上げると、黒髪に戻ったワカちゃんが目の前に立っていた。
「おはよう」
「・・・」
声を失っているボクにワカちゃんは笑いかけた。
「ずっといたよ。わからなかった?」
ワカちゃんは悪戯に成功した子供のような目をボクに向けて笑っていた。
もともと色白だったワカちゃんが、黒髪に戻って肌の白さが一層際立っていた。
すっぴんなのか、昔からあった目元と口元の黒子が妙にはっきりしていた。
「どうしたの?」
「いきなり”どうしたの?”は、ご挨拶ねぇ」
ワカちゃんは、悪戯っぽく笑った。
ワカちゃんはボクの問いには答えずに、前と同じように電車のホームを指さすと、ボクの前を歩き始めた。