クリスマスイブにデートの娘を買った事がある。
Hなしっていう条件。
拘束時間は明け方まで。
高いなぁと感じつつ、綺麗だからまぁ仕方がない。
食事して映画を観て、少し飲んで、場所を変えてまた飲んで、話が弾んで楽しくてあっという間に明け方になった。
こういうのも悪くないと思った。
時間になったから開こうと言って、電車動いてる時間だし駅まで送ったら
「帰りたくない」
と言われた。
でも金ないし。
延長はしないよってきっぱり告げると、
「じゃあわたしが出すからホテル誘って…」
と。
繁華街にそのまま歩いて戻り、結局ホテルでその娘に子供みたいにしがみついて、長い事ぐっすり眠った。
髪から煙草とミツコと、何か甘ったるい少女系コスメの匂いがした。
ハンドバッグに10センチくらいのピンクのクマのぬいぐるみが入ってたけど、やけに汚れてた。
「イメージと随分かけ離れたもの持ってるんだね」
と聞くと
「お守りなんだ」
と言ってた。
翌日の頭がすっきりした感じと爽快感は今でもはっきり覚えてる。
もう長い事あの爽快感を経験してないな。
彼女と渋谷駅で別れる瞬間、彼女が山手線の開いたドアに今にも吸い込まれようとしたその時、彼女は何を考えたかいきなり回れ右をして電車をやり過ごしてしまった。
「アドレス交換しよ」
と言って強引に僕のポケットからケータイを引っ張り出した。
向こうはおそらく仕事専用ケータイ。
こっちは隠れる事のできない丸裸の自分自身情報。
こういうのは好きじゃないし、自分らしくない。
イブの日にお金で女の子を買った情けない男だけど、そこに溺れるほど子供でもないんだけどな。
得たいの知れない営業メールが今後山ほど送られてくる事を思うと鬱になる。
だけどケータイは彼女の手にあって、素早い指先技で僕のアドレスは彼女の中へ。
勘弁してくれと口に出すのはさすがに格好悪いから、誤魔化すように彼女のサラサラの髪を撫でてみた。
「じゃあね」
と言って、彼女はふざけて全力で僕にしがみついてきて顔を上げ。
女のいやらしさ全開の笑顔で
「また会いたいよ」
って言った。
笑顔は僕の下半身を一撃で起立させるほどのパワーがあった。
あの甘ったるい匂い。
小さな肩。
また電話しちゃうんだろうな、おれ。
書いてたら、どんどん自虐的な気分になってきた。
当時を思い出しながら書こうとするが、記憶は曖昧で時間の順序もめちゃくちゃな事に気付く。
最初の出会いをきっかけに彼女とは微妙な関係が長く続く。
どうせだから最後まで書こうと思う。
当時のデートクラブのお姫様に魅了された哀しい喪男の物語だ、これは。
笑ってやってほしい。
大晦日になっても片付かない仕事に悪戦苦闘しながら同僚と年越しするのだけはやめようと、缶コーヒー飲みながら誓い合い、その数秒後に無理だと即答されて大笑いした。
その時ケータイが震えた、と記憶してる。
彼女からだった。
メール。
「クリスマスは一緒にいてくれてありがとう。お正月の三日間のどこかでお会いできませんか?」
営業メールの第一号が早速やってきた。
それにしても早い。
すごく早い。
彼女は仕事熱心なのか世間の時間の流れに無頓着なのか…。
でも正直に言うと実は凄く嬉しかった。
向こうはお金の為、と頭では分かっていても口元が緩む。
それから彼女の香水、ミツコじゃなくて、あのかすかな甘ったるい匂いを思い出そうとして何度も失敗。
イライラする。
彼女の手管に見事にハマったようだけど、全面降伏はさすがに格好悪いから意地の悪いレスで応戦してみた。
「元旦は無理。2日、3日なら空くと思う。隠さず素直にカムするけど、僕は制服フェチ。君が学校の制服で来てくれるなら会いたい。下着見えるギリギリの丈でよろしく」
多分もうレスはこないだろうと思った。
なぜかというと、最初の雰囲気からこういう内容には拒絶反応しそうな気がしたから。
完全に割り切った風俗の娘って感じでもなかったし。
もう一度会いたいのは素直な気持ちだけど。
待機画面になったままロゴを回転させてるPCをつついて起動する。
徹夜覚悟のpm11:00ってなんでこんな眠くなるんだろうな。
しかも寂しい。
元旦の昼過ぎにケータイが鳴った。
前夜はそのまま朝まで仕事が続き、家に戻って爆睡予定のつもりが、寝つけずに雑煮をすすりながらぼんやりテレビを眺めてた。
「りょうかい。マジ制服でいくけど引かないように。で、いつ?明日、あさって?」
引いてしまった。
ほんとに来ると書いてある。
ダラダラ気分が吹っ飛び、頭がしゃきっとする。
脳内ではグレードレッドの非常事態。
ニューロン兵士が慌ただしく駆け回り、黒人軍曹の口汚い罵りとちかちかまたたくハザードランプの高速回転。
「明日にしよう。場所はまるきゅう2の地下。あの喫茶店。なあ。ところでまさかイブ料金のままじゃないよね」
速攻でレスが返ってくる。
「おっけぃ。ちなみに、にがけ」
こっちもすぐに返す。
「よんがけ。嫌だったら他の娘探す」
君ほど綺麗な娘はみつからないだろうけど。
「-無茶言ってるよ。おっけい。りょーーかい。今回だけ、よんがけ。特別だよ。あなたにきれいって言われるとうれしい。ほんとだよ」
ケータイを閉じるとどっと疲れが戻ってきた。
雑煮を下げようとする母を止めて、自分の食べた分を台所に運ぶ。
それから自分の部屋に戻ってベッドに倒れこんで翌朝まで眠り続けた。
キャラメル色の長い髪。
掻き分けると、白くてツンととんがった顎に連なるラインがあって、顎骨に薄く乗った皮膚は固いようで柔らかくて、そこに自分の顔を重ねた所を想像する。
でも、どうしてもあの甘ったるい匂いが思い出せない。
新年2日の渋谷は人で溢れてた。
待ち合わせ場所は地下道で繋がっていて向かうのは楽だったけど、入店する事ができなかった。
満員だ。
そこで、僕は場違いなほどデカい声を上げてしまったんだと思う。
やんわりと入店を拒否する店員の後ろに彼女が立っていた。
約束を守って制服姿で。
店内の客が一斉に振り返り、僕と彼女を見つめ、そしてすぐに興味を失う。
可愛い女子◯生と、どこにでもいそうな年上の友人。
そんな風に見えるんだろうか。
考えてみればいままでこういう経験ってなかった。
この狭い室内で、僕は彼女の側にいてもおかしくない存在なんだろうか。
客があたりまえのように、僕と彼女がここにいる事を容認してくれた気がして
安心したような、嬉しいような、得意な気分になった。
ふつうの女性は僕なんかに興味を示さない。
デートはした事もないし、誘った事もない。
今まで一度だって味わった事のない感覚。
金で買った擬似的イケメンの体感。
「出よう。ここ空気悪いし」
彼女が僕のコートの袖を引く。
そしてまた渋谷の喧騒の中。
寒い中、地上を30分近く彷徨ったのち、南口のスターバックスで暖かいコーヒーにありつく。
ここは席すらない。
バス亭と路肩を仕切る、弛んだチェーンに腰掛けてコーヒーを啜る。
「これ、今日の」
彼女の手を握りたかったのかもしれない。
唐突に紙幣を筒状にまるめた束を彼女の手のひらに乗せる。
見えないように。
僕の手のひらはやけに汗ばんでいたけど、彼女の手のひらは冷たかった。
「ありがとう」
と言って彼女は素直に笑った。
グレーのミニスカート。
丈はかなり短かい。
Pコートに包まれて、残念だけど太ももはちょっとしか見えない。
制服の細かい描写は避けるけど、紛れもない本物のじょしこーせーが目の前にいた。
寒そうに猫背に丸まって、紙のカップを両手で持っている。
彼女はまじまじと見つめる僕の視線に気づいたのか
「化粧してないよ」
と言った。
「制服好きな人ってさ、お化粧嫌がるんだよね」
それから
「ほんとはちょっとだけしてるけど」
と付け加えた。
「お腹は平気?」
「うん。まだ平気」
「じゃあ、行きたい所は?」
「え?付き合ってくれるの?行ってもいい?」
どこへでも、お姫様の行きたい所へ。
まるきゅうで服を、原宿に移動してスニーカーを見て回り、キディランドで巨大なガムボールを2個買った。
お姫様はご満悦で、それからだしぬけにお腹が空いたと言い出した。
原宿かぁ。
この辺の知識はほぼゼロ。
しかも新年2日に営業してる店なんてない。
しばらくして、ふと年中無休のスタンドカフェを思い出した。
あそこなら何か食べさせてくれるかもしれない。
ベーコンのサンドイッチ4切れをぺろりとたいらげてココアを飲み、トマトをガーリックで炒めたのが美味しいと、もう一皿おかわりして、ストーブにしがみついたまま、カルアミルクを飲んでた。
あっというまに男の店員と仲良くなるのは、顔の綺麗さと血のせいか。
僕は自分が買ったスニーカーの箱を
「ほら」
といって彼女に渡した。
「お年玉。安物でごめんな」
「ん。なにこれ?ヒロのスニーカーじゃないの?」
「君のスニーカー。さっきの店で欲しそうに見てたでしょ。買う時に入れ替えてもらった」
話ながら、いきなり自分の名を呼ばれてドキっとした。
自分の名を女性にこんなに親しげに呼ばれた事なんてない。
キョドったかもしれない。
履いていたローファを箱に詰めなおして、新品のスニーカに履き替える彼女。
ほんとうに嬉しそうでとても演技には思えなかった。
体が温まり、お腹もよくなって店を出た。
「すぐ帰っちゃう?」
と彼女
「いや、どっちでも。でももう充分楽しかったよ。駅まで送るよ」
東郷神社境内に入った時、彼女が腕を組んできた。
「ねえ、ホテルいこ」
「は?Hは無しなんじゃなかったっけ」
「今夜はホテルまでサービス料金に含まれてますけど。キャンセルされますか?ただしホテル代は別途料金になります」
制服でも平気なホテルは目黒にあった。
彼女の案内。
反射照明だけのいかにもなモーテル。
空調の振動音だったか、ほんとうに雨が降り出したのかもう覚えてない。
その後彼女の腕の中に全部忘れた。
静かな寝息。
甘ったるいあの匂い。
深夜に目が覚め、トイレ。
エビアンを冷蔵庫からひっぱりだしてガブ飲み。
冷蔵庫から漏れる明かりで彼女のバッグがひっくり返っている事に気付く。
始まりはそんなに激しかったっけ?
バッグを手に取って、散らばった中身を1つずつ放りこんでいく。
ピンクのクマに化粧品に、何だこれ、手のひらサイズのおもちゃのピストル、財布、ハンカチ、ボシュロムのレンズケース、ケータイ…。
そこで手が止まった。
一枚のフロッピィが指先に触れた。
ピンクスケルトンの3.5インチ。
ラベルは無い。
いつもなら気にも留めないんだろうけど、持ち主は10代の女子◯生。
おまけに可愛くて、僕の心に住み着きつつあるその本人。
何も考えずに備え付けのPCを起動し、フロッピィを突き刺す。
カタカタと音がして、彼女の秘密があっさり表示される。
メモ帳のファイルが2つ。
エクセルのファイルが1つ。
メモ帳は全て英文で馬鹿な僕には読解不可能。
エクセルの方は、ケミカルっぽいチンプンカンプンな英単語と数字の羅列。
結局の所、僕には彼女の秘密に触れるその資格すらないらしい。
自分の捨てアドを呼び出し、内容をコピーして放りこむ。
それから友人のオタにメールしてエクセルの内容よろしく、と可愛い顔文字付で送付した。
ベッドに戻り、彼女を背後から抱きしめるその前にちょっと気になって彼女の手首と、太ももを調べた。
真っ白。
なんの痕跡もない。
お姫様の寝顔は、お姫様そのものだった。
フロッピィの事はすぐに忘れた。
眠かったし酷く寒くて彼女の温まった背中の方が、あの時はよほど魅力的だった。
明け方近くに目覚めて、彼女を叩き起こした。
まだ眠いとグズる彼女をなだめ、制服を着せてやり、靴下を履かせた。
転がったスニーカーの片方を探そうとベッドの下を覗きこんだ時、ミニスカートと太ももの境界線、えっちサイトに転がってるローアングルな定番画像がフラッシュバックした。
突然、彼女を傷つけてやりたい衝動に駆られた。
右足首を掴んで手前に引くと彼女はあっさりベッドに倒れ、僕は柔らかい真っ白な太ももに顔を埋める。
何の抵抗もない。
しわくちゃになったベッドのシーツに顔を半分埋めたまま、眠いような焦点を結ばない綺麗な瞳が僕をじっと見ていた。
いつかテレビで見た、ライオンに倒されたシマウマの子供を思い出した。
どこを見ているのか分からないあの大きな黒い眼球。
喰われながら痛いのか怖いのか悲しいのか判別不能な、だけど憐れみを誘う瞳。
欲望は一瞬に蒸発して、それから僕は少し落ちこんだ。
ホテルを出た。
僕が先に通りに出て、人がいない事を確認してから彼女に手招きした。
場所柄、こんな早朝新年3日目に人がいるはずもないけど制服はやはりマズい。
機敏な動作でさーっと駆け出してきた彼女が、僕の腕をブレーキに止まる。
同じタイミングで、いかにもなおやじと女子◯生が一組出てきた。
早足で歩き去りながら後ろをちらっと一瞥して、勝った。
と叫び声を上げた。
頭の中で。
勝負になってなかった。
髪の毛の一本まで姫様の圧倒的でまったく一方的な勝利。
これも金で買った勝利か?と自問自答したけど考える意味も無い。
僕は、こと女性に関してはガキで子供だって事。
可愛い姫様が隣にいて有頂天になっているだけだ。
目黒駅まで長い距離を歩きながら
「今夜もお姫様を買いたい」
と言ってみた。
彼女は前をみて歩きながら瞳だけこっちに向けて”意外”と言いたそうだった。
済ませたい用事があるとかで、彼女は渋谷方向の山手線ホームに消えた。
ミルクスタンドで牛乳を買った。
冷たすぎて味がわからなかったが、頭はすっきりと冴えた。
ケータイを取り出して友人のオタにメール。
こいつは電話が嫌いでコールするだけ無駄。
絶対に出ない。
昨夜のメール届いたか?内容は把握できそうか?いたらレスくれ。
駅構内は閑散としていて寒さがつらくなってきたので、営業開始したばかりのスタンドカフェへ。
暖かいコーヒーを注文して、ウトウトしているとメールが届いた。
メールは彼女からだった。
「今日も誘ってくれて嬉しかった。家に帰りたくないから、どこかホテル予約してもらえませんか?それから割引はなしで。でも、ホテル代はその中から払ってもらっていいです。今夜も一緒だね。楽しみ」
何度も読み返してしまうのは、本気で好きになりつつある証拠なんだろうか。
コーヒーをすすりながらレスする。
「わかった。探してみるね。それから制服じゃなくてもいいよ。制服フェチは嘘。お姫様の好きな服で」
送信が終わると登録アドレスから、仕事柄よく使う都内のミドルクラスのホテルに電話する。
たまたま偶然にも友人本人が出てくれた。
正確には友人と言える仲じゃないけど、仕事で知り合って数年になるし、年も近いせいで何度か一緒に遊んだ事もある。
嘘をつかず正直に話をして、予約を入れた。
向こうが電話を置く時、
「安心して利用してほしい」
と言ってくれた。
明日には忘れるという意味だと思う。
持つべきものは友達。
チェックインの時間までホテルのロビーで過ごした。
仕事を終えた友人が来てくれ、飯でも食おうという事になった。
美味いチキンライスを出してくれる洋食屋があるというので、迷わずそこへ。
「しかし入れ込んだものだね」
とスプーンの先を僕に向けて友人は言った。
「経験あるし分からなくもない」
と。
「うん」
とだけ言っておいた。
まあ、本気にならないこった。
会話の内容は、いつの間にか昔行ったビリヤードのスコアの話になり、スコアが友人の勤務記録の話になり、仕事を変えたいっていう愚痴になり始めた頃、オタがメールしてきた。
内容は重く、あっさりとしたものだった。
「アンフェタミン、意味わかるかい?詳しく知りたかったら、まずそっちの情報教えろ。このファイルはどこで拾った?なぜこの内容を知りたがる?とにかく全部話す事。話はそれから」
嫌な予感がした。
友人に、部屋にPCが欲しいと頼んでみた。
「構わないよ。僕のを使ってくれていい」
と二つ返事で了解してくれた。
「すぐに部屋に運ぶよう、誰かに頼んでおくよ」
店の前で友人と別れ、僕はそのままホテルに戻った。
さすがにホテルのサービスらしく、ノートPCがベッド脇のサイドテーブルに早速用意されてた。
彼女が来るまでに、面倒な事は済ませておこう。
メールをまとめるのに数分。
送信してからベッドに横になって少し眠った。
1時間もしないでオタからメール。
「まずエクセルファイル。ここに載ってるのはストリートドラッグのリスト。ほとんどが合法なんだけどヤバいのもある。でも、まあそんな目くじら立てるほどじゃない。本当にヤバいのは最下行の1つ。βエンドルフィン。分かりやすく言うとモルヒネ。沢山地紋のように並んでる数字はおそらく買い付け個数と支払った額と残高。これはただの推測だけど、このファイルのみで考えるとこのファイルの製作者は126万の未払いがある。
目がしょぼしょぼした。
何で僕はいつもこうなんだろう。
関係ない事に首を突っこんで、面倒に巻きこまれる。
2通目が送信されてきた。
「テキストエディタの2通。こっちはよく分からん。とにかく一見すると英語がネイティブで使える誰かがその家族に宛てた手紙。それ以上の事は何も書いてないように取れる。エクセルファイルにこじつけると、中に書かれてある住所が特別な意味を持つとか…。もちろんエクセルファイルと因果関係は全く無いのかもしれない。たまたま同じメディアに記録しただけとか」
しかしすごいな。
さすがオタ。
医大出身のひきこもりだけの事はある。
顔がキモイってだけでヲタ扱いされてた可哀想なオタ。
僕だけは愛してるよ。
「ありがとう。もうお腹いっぱい」
それから助かったと追加してオタにメールした。
送信と同時に、入れ替わりで3通目が送られてきた。
「ただ盗み見したいだけなら、もう充分だろ。そのくらいでやめとけ。お前がモテないのはよく知ってる。だからって誰でもいいと言うなら、心の底から軽蔑してやろう。その手の女はやめとけ。お前の手には負えない。悲しいなら一緒に飯食ってやるから。出すもの出してさっぱりして、すぐに帰ってこい」
ありがとう。
オタ。
飯を一緒するのは願い下げだけど気持ちは嬉しいよ。
オタからの意外なメールにじ〜〜んとなってるとケータイが鳴った。
彼女からのメール。
「買い物してから向かいます。もう少し時間かかるかも」
またオタから。
「書き忘れた。リストに日付があって、何度か変更されてる。日付の変更と一緒に、数字がいくつか更新されてる。在庫を動かしたとか?まあ、どうでもいいか」
彼女から
「ね。淡いグリーンと白とどっち好き?」
「ルール違反はわかってるけど、声を聴きたいから本当のケータイ番号を教えて欲しいと彼女にメールした」
あっさり一蹴されるだろうと思ってたのに、彼女からすぐに電話がかかってきた。
僕はホテルの名と場所を教え、早く会いたいと言い、どっちかっていうと白かな、って馬鹿丸出しで答えた。
ごめんなオタ。
フロントから連絡があり、来客との事。
部屋へ通してほしいと伝えると、間もなく彼女がやってきた。
沢山の紙袋を肩から下げたまま第一声は
「綺麗なホテルだね。こんなとこはじめて」
気に入った?と尋ねると、うんうんと頷く。
口からチュッパチャプスの白いスティックが飛び出してて首の動きに合わせて大きく上下する。
僕は最初に話しておこうと考え、手を取り2つあるベッドの1つに彼女を座らせた。
この頃になると、僕は完全に彼女に魅了されていて離れる事が考えられなかった。
お金の事はどうでもいいとさえ思った。
貯金すべてを失うわけじゃなし、そのうちの何割かで、美しい思い出を買うのだと自分に言い聞かせ、しかもその言い訳を本気で信じさえした。
話があると言った。
きょとんとして、僕を覗きこむ彼女。
チュッパチャプスのスティックの動きがぴたりと止まる。
「僕の休みは6日まで。あと3日だね。その間ずっと君と一緒にいたい。場所はこのホテルかな。実はもう6日までキープしてあるんだ」
彼女の視線が宙を泳ぐ。
スティックの先を小さな指先で摘んで紫色のキャンディーを口から引っこ抜いて彼女は言った。
「うん。いいよ。お家に帰りたくないから、泊まる場所探そうって思ってた。このホテルなら最高。ヒロとも一緒にいれるし」
ほっとする僕。
「じゃあ、そんなわけで値段交渉なんだけど…」
ベッドから彼女を引きずり下ろし、後ろから抱きとめるようにして、ちょっとシリアスに彼女と2人で彼女の残り3日間の値段を決めた。
結局、僕が考えていた範囲の最大値で彼女はOKをくれた。
「よゆー」
と言って笑ってくれた。
あと3日。
その間、全部忘れようと思った。
仕事とか、友達とか、僕の周りの事全て。
彼女の事だけ考えよう。
彼女の着ていた黒のノースリに顔をくっつけると新品の匂いがした。
買い物ってこれだったのか。
よく見ると上から下まで新調したらしい。
制服はコインロッカーへ?
家には帰らなかったんだね。
用事ってあのフロッピィを誰かに渡す事だったのかな。
ああ。
まあいいや。
考えるのはやめよう。
彼女を抱きしめていよう。
今さらこんな事を言っても誰も信じないだろうけど、これは体験談です。
当時の時間の流れたままを小説ぽく書いています。
なぜ、そうするかというと、照れもなくなく自分じゃないように書けるからです。
いくつかはもう忘れてしまっていて曖昧で、もちろん脚色もあります。
例えば彼女の口調とか。
実際にはもっと今っぽくて、簡潔で、手短で、もっともっと可愛いかった。
僕の筆力なんてたかが知れてるのでこんな風にしかまとまりません。
メールもここに書いた何倍もの量を、彼女とそしてオタの間で交わしました。
じゃあリスタートします。
「お腹空いてない?」
「ぺこぺこ。何か食べないと死んじゃう」
「おーけい。ホテルからちょっと歩くけど、すごく美味しいイタ飯がある」
と、あたかも詳しいそぶりで説明する。
でも実は仕事で何度か行った事があるだけ。
店に向かう途中、母から電話があった。
食事を作ってるのに父さんまで消えたと抗議の電話。
仕事で6日まで戻れないと手短に説明すると、ため息と空電のノイズ。
良心がチクチクしたから、母の電話を切ったのち弟に
「母さんが風邪。倒れたみたいだ。すぐ帰ってくれ」
とメールしておいた。
弟は晦日から彼女の部屋に入り浸り。
僕はお金で彼女の側にいれる可哀想なやもめ。
労働と賃金は平均化されるべきなんだよ。
弟よ。
僕と弟ではすさまじい不平等にあるからね。
彼女がニヤニヤしながら、僕を見てた。
それから
「いいよね。お母さん優しくてさ」
と言った。
僕と彼女のつかの間の仲じゃ当然かもしれないけれど、僕は彼女の家庭とかいつも暮らしてる環境を知らない。
帰りたくない。
と何度か聞いた彼女のセリフをすぐに思い出した。
何かあるんだろうな、と憶測しながらも聞けないしあれこれ考えてから
「白と緑って何だったの?」
と間抜けな質問をしてしまった。
彼女は笑いながら、
「うん。白と淡いグリーン」
ニヤニヤ笑いを浮かべたまま、今夜のお楽しみだと言った。
あ、なるほど、そうか。
だったら緑だったのにな。
僕の前を走ったり、いきなり腕を組んだり忙しなく歩く彼女を見つめる。
ローライズのデニムに小さい紙のタグが残ってるのに気づいたから彼女の腰に手を回して、バリっと剥ぎ取ってあげた。
「ん?」
と訝る。
「タグ残ってたよ」
と僕。
小さな紙切れには
「ミスシックスティーン」
と英文で書かれたロゴがピンクの文字で印刷されてた。
16歳ね。
彼女は実際には20くらいなのかもな。
妙に大人びてたりするけど15だったりして。
真実は闇の中。
最後まで僕は彼女の年を知る機会がなかった。
店は意外にも人が多かった。
はぁ、予約しといて正解だった。
3日だから、という理由は都心じゃ関係ないのか。
席に案内されると、コートを店員に渡した彼女が
「ヒロってさ。実はすごく遊んでるでしょ」
と言った。
これには笑った。
実は、と彼女が言ったのには、見かけと違ってというニュアンスが強く含まれてて、喪男なのになんでこんなとこ知ってるの?と言いたげだった。
「いや、仕事でさ」
と正直に答える。
でも、彼女にはそれが真実とは伝わらないだろうな。
僕は彼女の頭の中でちょっぴり再構築され、彼女の男を見る目がやや改善される。
そんな馬鹿げた事を想像して笑ってしまった。
僕は姫様が推測するままの男。
食卓には高そうな分厚い刺繍のクロスが2枚かけられてて、店員が運んできたパンを僕がいくつか選ぶと直接クロスに無造作に並べられた。
彼女が好奇心に溢れた子供っぽい熱い視線で、給仕の手の動きを追う。
「食べてもいいのかな?」
「もちろん」
と僕。
「コーヒーとか先にもらう?」
「ん〜。お酒飲みたい」
「好きなワインとかある?」
「よくわかんない」
僕もよく分からないから、給仕に選んでもらった。
パンを千切る彼女の手の動きは子供みたいに元気で、蝋燭の明かりと飲めないお酒でぼんやりしながら僕は彼女の指先から肩、華奢な鎖骨から首すじ、そして唇が上下する様を見つめてた。
綺麗だよ。
姫様。
ここで食べたいよ。
メインが運ばれてきたあたりから2人とも無口になって、それこそ食事に夢中になった。
何しろ飢えてたし、こんな美味いとこ滅多に来れないし。
食事の後僕はエスプレッソ、彼女は飲み続け、デザートに手をつけないでそこからワインをもう1本空けた。
彼女がテーブルにだらっと、でも心地よさげに投げ出した手を握った。
閉じていた目をさっと開いて
「どうしたの?」
と小声で言う。
「綺麗だな。と思ってさ」
彼女の唇が左右へ引っ張られて、柔らかな笑顔、形のいいハイフンが作られると、彼女は突然テーブル越しにヘッドバッドしてきた。
彼女は美味しい食事を心の底から楽しんでて、こういう店で妙に畏まったり、ぎくしゃく上品に振舞ったりしないで気後れする事もなく、僕といる事を仕事と割り切ってないように見え、しかもリラックスしていた。
やばいな。
本当にやばい。
好きになってしまいそうだ。
心底。
彼女は、はたと自分の前に置かれたケーキに気づいたかのようにそれをしげしげと眺め、それからつつっと僕の方へ押し出した。
「どうした?」
「ケーキ嫌い」
と彼女。
「甘いの嫌いなの?」
「甘いの好きだけど、ケーキは嫌い」
しめたとばかりに2つめのケーキを頬張る僕。
2杯目のエスプレッソを飲み出したあたりで僕は出し抜けに気づいた。
彼女の首筋とか衣類にかすかに残ったあの香り。
バニラエッセンス。
すると彼女の実家は菓子屋なんだろうか。
いや、それにしてもバニラエッセンスの匂いってそんな強いのか?
バニラエッセンスの匂いだけ付着するものなのか?
彼女は菓子屋を経営する両親と上手く折り合ってない?
だからケーキが嫌い?
「先っちょだけかじらせて」
そう言って手を伸ばした彼女の一言で、僕の推理は跡形もなく消し飛んだ。
気分よく店を出て、それからタクを拾おうとすると彼女が制した。
次は私が案内すると言い、まだ飲み足りないと付け加えた。
彼女の手を握り、ゆるやかに蛇行しながら繁華街からは逸れた方へと向かう。
夜風が気持ちよくて、珍しく彼女は身の上話をした。
「ヒロには優しいお母さんがいていいね」
と。
「私ね、お父さんにはもうずっと会ってないんだ」
と。
向かった店は青白く光る模造真鍮の路上行灯が出ていて、いかにも今っぽい安普請な、でも格好良い造りで中は雑誌の中でしか見た事のないようなお姉さんが沢山いた。
これじゃ場違いだ。
僕がいていいような場所じゃない。
カウンタの一番奥のさらにその奥のテーブル席に座ると、すぐにホールのお姉さんがやって来て注文を急かされた。
肌がプラスチックみたいな、均一の茶色。
染みひとつない。
頭も小さくて髪を後ろにひっ詰めてるせいで黒人女性のように見える。
白いストライプの入った黒の光沢のあるジャージ。
お腹はむきだしで、美しい筋肉で覆われている。
ジンジャエルとカルアミルクを注文して、それからやけに恥ずかしくなった。
「ここね、変な奴があんまりいないし、朝までやってるし、店員がちゃんとしてるから一人で酔っても平気」
変な奴に何かされるんだろうな。
彼女が酔ってると。
それから10分もしないで彼女はすやすやと寝息を立て始めた。
ワイン2本のうち1本と半分は彼女の胃袋の中。
そりゃ寝ちまうか。
テーブルで勘定を済ませて、彼女を連れ出そうと抱え上げると店内の客から、おおっ、と声が上がった。
内心僕は、彼女がダウンしてしまったせいで、心細かった。
こんな場違いな場所にひとり残された心境で臆病になり、早く退散したかった。
別に気取ってお姫様だっこしたわけじゃないんだけど、妙な焦りで思わずやってしまったんだと思う。
完全にキョドってしまってた。
ホールの女の子が気を利かせて、彼女のコート、ウサギ毛の手首がふくらんだ灰色のプードルみたいな毛の塊とバッグを運んでくれ、おまけにドアまで開けてくれた。
「お気をつけて」
と言ってくれたホールの女の子の口調は機械的で見透かされたような気分が和らいで、それがせめてもの救いだった。
店を出ても彼女は一向に起きる気配がなく、タクが通るまで彼女を抱え上げたまま待つ事なった。
ちっとも苦痛じゃなかった。
彼女は軽かったし、感触は心地よかったし、彼女の髪に顔を近づけたりもできた。
背後でさっきいた店の音楽とざわめきが大きく聞こえたので振り返るとドアが内側にやや開いたようだった。
音が漏れたんだ。
次に、ドアが大きく開かれ、あの女の子が走ってやってくると
「これ、リカに渡して上げてください」
と言って一枚のフロッピィを彼女のバッグに押し込んだ。
「タク呼びます?」
と言ってくれたけど、丁寧に辞退して、大きい通りまで歩く事にした。
タクはすぐに捕まり、彼女を乗せる時
「リカ。タクシー来たよ。これから帰るよ」
とわざと彼女の名を入れて話しかけた。
彼女は一瞬目を開いて僕の顔を確認したけど、すぐに興味を無くてまた深く眠った。
リカっていうのか。
どういう字なんだろう。
いや、それすら偽名なのかもな。
道路は渋滞気味で、ホテルに到着するまで結構な時間がかかった。
僕もいつの間にか眠ったようで、運転手にホテルの近くで起こされた。
場所をそう指定したので、ホテルのロビーに横付けな間抜けは避ける事ができたわけだ。
部屋に戻って2時間ほど眠った。
寝苦しくて目が覚めたんだけど、彼女がしがみついてきてたせいで寝汗をかいてた。
そういえば、着替えとか用意してなかったんだよな。
シャワーを浴びてクロゼットからバスローブを取り出して着た。
鏡に映すと笑えるくらい似合ってなかった。
服だけでも取替えに朝早くにでも家にもどるか。
そんな事を考えながら、寝てる彼女をひっくり返して服を脱がせ、ブラだけ取ってシーツで包んだ。
彼女の下着は真珠貝の殻のような曲線が刻まれていて白で、その下着に包まれて横たわる彼女は恐ろしく魅力的だった。
でも酔って寝てるし、まぁ仕方ないか。
煙草を吸ってから、彼女のバッグからフロッピィを取り出した。
僕は誰か他人の持ち物を引っ掻き回したりなんて普段しない。
けど、不思議と罪悪感はなかった。
フロッピィの中には、10kの画像ファイルが3つ。
拡張子はgifでブラウザでロードすると真っ黒な画面。
またまたオタに登場願うか。
画像ファイルをダウンロードしてオタにメール。
特に注釈は付けずに
「これもよろしく」
と。
それにしても一体なんだろう?
どう見てもただの真っ黒な画面だ。
液晶のせいで微妙な色合いが見えないだけなのか?
彼女は寝ているとはいえ、傍らにいるのに、注意が足りなかったのかもしれない。
それとも浅い罪悪感のせいで、大胆になっていたとか。
普段はもっと繊細なはずだ。
その時寝ているはずの彼女がむくっと起きた。
なんの前触れもなく、機械仕掛けで動く人形が内部時計に反応して動き始めたように。
あまりに唐突過ぎて声を出す事も、その場を動く事も出来なかった。
もちろんPCにはフロッピィが刺さったままで、丁寧な事に画像まで表示してある。
真っ黒だけど。
唾液くらいは飲みこめたかもしれなかった。
彼女は目を開けているのか、閉じているのか判然としない
菩薩像のようなとろんとした目で、あたりを見回し、それから僕を認めると
「ダメじゃんヒロ。早く消さないと」
と言った。
「け。消す?なにを?」
彼女はとてもゆっくりと起き上がり、ベッドから降りると僕の頭をぎゅっと抱きしめ、優しく額にキスしてくれ
それから四つん這いになって前進しながら、部屋中のコンセントを探し、そして抜きはじめた。
「リカ。リカ?」
何が起こったのかさっぱりわからなかった。
彼女はどう見ても意識がないように見えた。
確かに自立で歩いてはいるんだけど。
しばらくして、これって夢遊病ってやつ?と乏しい知識の中から今の状況を上手く説明する言葉をなんとか探し出してみる。
「リカ。なんでコンセント抜くの?何かまずいのかな?」
これじゃ不審者は僕の方だ。
彼女はまるでそうするのが当り前のように、部屋の隅を戦闘中の兵隊みたいに這いまわっている。
「雷の時はね、コンセント抜かないといけないんだよ。わかった?」
PCのアダプタだけは足の指で押さえて抜かせなかった。
そういえば、寝言を言ってる人に話しかけちゃいけないとか、なんとか…返事だったっけ?
そんな事を思い出して、気味が悪くなった。
冷蔵庫のパワーが落とされ、サイドスタンドが消され、部屋は折り畳んだPCから漏れる光だけになった。
「さあ、大丈夫だよ。もう泣かないんだよ」
彼女はそう言うと、僕をあやすように抱きしめてくれた。
そう。
あやすように、だ。
少なくとも、年上の男に接する感じじゃなかった。
まるで僕を小さな子供だとでも思ってるみたいだった。
さっき服とブラを脱がせたせいで、彼女の乳房が直に顔に触れる。
僕は複雑な心境で彼女を抱きしめ、ベッドに運んだ。
それから彼女は泣き出した。
長く泣き続けたために、やがて目を覚ましてしまい、再度僕を目の前に認めたあと、
「ヒロ?」
と確認するように言い、次は自分が子供みたいにしがみついてきた。
「ごめん」
と彼女は言った。
「怖い夢だったのかな?」
「怖いっていうか…わたし歩き回ったりしちゃった?」
僕は正直に、歩き回って部屋中のコンセントを全て抜いたと説明した。
疲れてる時とか、お酒を沢山飲んだ夜はよく歩き回るのだと彼女は言った。
見られた事を恥ずかしいと思っているのか、やった事を後悔しているのか分からなかったけど、その時の彼女は何かを深く思いつめてるようだった。
それから…子供。
「そう。子供。男の子なのかな?上手く言えないけどそんな気がした。君の?」
一瞬、彼女の両腕の筋肉がわずかに収縮したように感じた。
「ううん。弟」
「小さいんだね。まだ」
「ううん。小さいままなの。死んじゃったから」
「病気だったのかな?あ、答えたくなかったらいいよ。色々聞いちゃマズいしね」
彼女は鼻をすすり続け、そして僕から離れようとしなかった。
離れるのがまるで悪い事みたいに、むしろ彼女がしっかり僕を抱きしめてた。
「でも、ヒロはお客さんだしさ…」
「構わないよ。もう充分驚かされてる。普通の客なら怒ってるでしょ」
彼女はちょっと笑って、だよね、と言った。
「殺されたの」
「え?殺された?誰に?」
「おじいちゃんと、おばあちゃん」
彼女は喉から溢れようとする声を押さえ切れずに、肩を振るわせた。
目が真っ赤で鼻水が出てて、そんな顔を見られまいとしてか、またしがみついてきた。
「インフルエンザだったの。でも病院に連れてってもらえなくて、寝てれば直るって言われて。でもね、おかしかったの、ずっと熱が下がらなかったし、そんな状態が二日も続いたのね。私その時240円しか持ってなくて、それでも何とか弟を病院に連れて行かなきゃって思って。でも、どこの病院に行ったらいいかなんて分からなくて、タクシーに乗ろうとしても全然相手にしてもらえなくて、凄い寒い夜だったの。寒いのに弟の体は熱くて、子供でも水を飲ませなくちゃって思ったんだよね。ポカリスエットを自販で買って飲ませようとしたんだけどもう、ちっとも飲んでくれなかった。呼びかけても目も開いてくんなかった」
彼女は一気に捲し立てると、それから大声でワァワァと泣き始めた。
僕は彼女をベッドに横たえる事が、なぜか不謹慎な気がして、ベッドとベッドの間の床に座って長い事彼女を抱き締めてた。
彼女を抱きしめたまま、フロントに電話してコーヒーをポットで頼み、ついでにレモネードを1つ注文した。
「ヒロっていうんだよ。弟。ヒロと同じ名前…私が殺したって言われた。そうだよね。あのまま部屋で大人しく寝てたら、もしかしたら熱は下がったかもしれなかったよね。わたしも死んじゃえばよかった…」
彼女が泣き止んだ頃には空は明るくなりはじめてて、4日の朝。
2人でコーヒーを飲みながら、お互いの身の上話をした。
話題を、僕が意識して外したから。
彼女が泣くのは、何ていうか、条件反射のようになっているように思えた。
もう何年もたっぷり泣いてきたんだろうし、罪は贖えただろ。
とっくに。
もっとも罪なんてあればの話だけど。
可哀想な姫様。
彼女は最後にこう言ってくれた。
「ヒロが大きくなってたら、ヒロみたいに優しい男の子になってたかな」
僕は笑った。
優しくなんかないよ。
僕だってお金で君を買おうとした。
その他大勢の男達と何も変わらないんだよ。
コートのポケットに放りこんでたケータイがブブブと震えた。
僕にもたれて、ウトウトしていた彼女がさっとまぶたを開く。
僕は全く気付かないでいたけど、彼女の動作でメールと分かった。
オタからメールかな。
「ざけんなよ。お袋ピンピンしてるじゃねーかよ。おまえ1つ貸しな。ぜってぇ1つ貸しな」
弟だ。
家に帰ってもらえたようでよかった。
だけど、彼女といる時は勘弁してくれ。
いい年して
「ぜってぇ」
なんて言葉使ってるんじゃないよ。
DQNな文章。
頭が痛くなる。
彼女がメールを読む僕の無表情に心配したのか、
「仕事?」
と聞いた。
「弟からだよ」
と口にして、しまったと後悔した。
何というタイミングの悪さだろう。
ついさっきまで彼女は弟を思い出して泣いてたっていうのに。
ところが、次の言葉を探してぼけっと立ったままでいる僕を逆に彼女が気遣ってくれた。
汗かいたからシャワー浴びると言って、ベッドのシーツに潜りこみ、クロゼットに手だけ伸ばしてハンガーからバスローブを摘み出した。
素早い小動物の動き。
真っ白な長い脚が絨毯の上で数回跳ね、彼女はすぐにバスルームに消えた。
裸でいたくせに、汗なんてかいてるはずないのにな。
バスルームからシャワーの音が聞こえてくると僕は散らかった部屋を掃除し始めた。
彼女が抜いて回ったコンセントを元に戻し、彼女が買い集めた買い物袋、そこから飛び出して部屋中に広がった包装紙を拾い集め、ベッドメイクし、そして最後に折り畳んだPCからフロッピィを抜き出して彼女のバッグにしまった。
「ああ、そうだ、昨日ね」
僕は大きな声でバスルームの彼女に話かける。
「君が案内してくれた店。そこの女の子からフロッピィ一枚渡されたよ。君のバッグに入れてくれた」
バスルールで反響した篭った声がすぐに返ってきた。
「うーん。わかったぁ。ありがとう」
特に動揺する様子もない声。
焦りもなく、ごく普通の彼女の返事。
彼女は中身が何か知らないのかもな。
あれこれ思案しながら、彼女の衣類をバスルームの入り口に置く。
綺麗に畳まれた四角い色の層を見つめながら、もちろん昨夜僕が畳んだのだけど、普通男ってこういう事をするものなのかな?とぼんやり考えたりした。
バスルームからアラブ人みたくタオルを巻いた頭をひょっこり突き出すと、彼女はまず部屋を見、それから足元に畳まれたブラと衣類がある事に気づいてニコッと笑い、そしてげらげら笑い始めた。
バスルームに反響する彼女の笑い声。
「ヒロってさ。変わってるよね。几帳面なのはすぐに分かったけど」
ああ、やっぱりおかしかったんだな。
商売女の下着を畳んでしまう男って事で、彼女の脳内で分析が始まってるに違いない。
自分では親切なつもりで気遣ったんだけど、同時にどこかおかしいとも気付いてる。
結果的にはかなり可笑しい行動。
つまりいつもの僕の行動。
クライアントを気遣ったつもりの行動が、いつのまにか要領の悪い男の烙印に変化する。
「ヒロォ。聞いてる?」
「うん。あのさ、別に君の下着に触りたかったわけじゃないんだよ、つまり…」
「じゃなくて。あのね。私こんな事しばらくやってるでしょ。男の人って私に優しくしてくれてる風でいて、実はそうでもなかったりするの。
私がベッドに投げたコートに平気で腰を降ろすし、平気でわたしの靴を踏んづける人もいる。下着持っていかれるなんてしょっちゅうだし」
プラスチックの化粧品のキャップか何かがバスルームの床で跳ねてコン、コーンと響く。
あっ、と彼女。
「私なんて所詮そんな存在。ホテルに備え付けの便利機能。そりゃ、ちょこっとは値も張るかもしれないけど…」
彼女はパタパタとバスルームから駆け出してきて、僕にジャンプした。
ベッドが大きく揺れる。
「何か嬉しかったよ。ヒロ。すごーーく嬉しかった」
とは言うものの、Hはダメらしかった。
彼女の細い腰に腕を回して、引き寄せようとすると、逆回転であっさり逃げられてしまった。
アメリカ製カトゥーンのキャラクタよろしく、彼女は人差し指を真っ直ぐに立て、左右に振り、チッチッチと口で言い、それから声に出して笑った。
彼女が子供っぽいしぐさできゃあきゃあ笑っていると部屋のドアがノックされた。
ホテルの従業員だった。
彼はサンドイッチとコーヒーポットの載った銀の四角いトレイを持っていて、ホテルの便箋に書かれたメモを一緒に僕に渡してくれた。
友人からだった。
メモにはただ
「おはよう」
と書かれてるだけだった。
ベッドに行儀よく並んで座ってコーヒーを飲みサンドイッチを頬張りながら、今日の予定を話し合った。
僕が一度家に戻って着替えてくると言うと、彼女は渋谷に用事があって、それはすぐに終わるという事。
その後で、どういうわけか僕の家に着いてくると言い出した。
僕の部屋と家族をほんのちょっとでいいから見てみたい、僕の部屋の窓から外が見たいと言い出した。
何となく分からなくもない気がした。
彼女の気まぐれについて。
彼女が家族の団欒を欲しがってるとか、そんな風には思えなかったけど、そこが気まぐれの理由だったりもするんだろう。
何より、僕自身に興味を持ってもらえた事が、凄く嬉しかった。
僕はすぐにおーけいした。
見られて困るものなんて何もない。
貧乏家族がいるだけだ。
結果、彼女が1時間ほど早く出発する事になり、僕が使ってる最寄駅で待ち合わせる事になった。
もしかするとおせちの残りくらいあるかもしれない。
馬鹿な弟が全部食べてなければだけど。
彼女が出発してすぐにオタからメールがあった。
忘れちまってたよ。
昨夜は色々ありすぎたし。
「まだ探偵ごっこですかヒロくん君をそんなに魅了してやまない嬢様はきっと飛び切りの美人と判断します。見ただけで射精しちまうとか。おっと失礼。画像アップよろしく。希望が聞き届けられない場合は返信もありませんのでどうかご理解のほどよろしくお願いいたします」
頭が痛くなった。
弟といいオタといい話をしてると、いつも何かしら面倒なオマケがついてくる。
オタは無慈悲だ、こういう事に関しては。
放っておけばまずレスはない。
仕方ないから初めて姫様に会った晩、渋谷のどこか、たしかホテルに向かう途中の路上、自販で買ったコーヒーを飲む彼女を撮った画像を送った。
ケータイの画像だし、写りはよくない。
不自然な強い影のせいで、彼女があまり美人でないように見える一枚。
オタはすぐに興味をなくして、レスをよこす。
僕の方が一枚上手って事。
送った途端、早くもレスが来た。
これには驚いた。
「ヒロくん。僕が芸能界に疎いと知ってて適当な一枚を送ってきたのでしょうか。どこかのサイトに転がったアイドル写真など興味ありません。嬢様の画像を希望します。それでも尚わたくしめを愚弄なさるおつもりならば、金輪際返信はないものとご理解ください」
頭がいたい。
すぐにレスを返す。
「嘘じゃないよ、本物。さ、早く情報希望。あの3枚のgifはなんだった?」
オタから。
「焦ってもらっては困るよヒロくん。まだこっちの条件に答えてもっらてない。本物と言うならあと2枚別アングルを所望」
ダメだ。
意地になってる。
どうもこういう所が大人気ない。
オタの悪い癖だ。
とはいえ送らないではレスもない、絶対に。
缶コーヒーを持って笑ってる彼女の画像。
それから決定的な、僕と2人で写ってる画像の2枚を送った。
すぐにレスが来た。
「嬢様いくら?オレも買う。つか、めちゃめちゃいい女。オレも好きになった。これじゃ不公平だ。おまえはおれに訳の分からん何かを突然送りつけてくる。オレは必死になって解読する。お前だけ得。オレは損。こんな馬鹿な話があるか?」
ダメだ。
相手にするのはやめた。
ポットに1杯だけ残った最後のコーヒーをすする。
凄く美味い。
カーテンを開けて部屋から見える都内の風景を眺めた。
鳥が飛んでて、申し訳程度に緑もあって、そんなに悪くない。
ウインカーを点滅させながらゆっくりとカーブを進む車。
雨が降り始めたせいで、足早に歩くサラリーマンの黒い点。
風景を眺めてると、姫様との数日がまるで嘘のように思えた。
頭の中で、風景から人の動きを線で結んで切り取ってみる。
もちろんそこから何かを拾ってくるほど、僕は頭がいいわけじゃないし、閃きに突然襲われる天才であるはずもない。
でも、高速で移動する点を眺めるのは僕にはどこか息苦しかった。
ホテル壁面に遮蔽されて、動かない点。
それが今の僕だ。
姫様の中へ逃げ込もうとする僕。
気紛れに僕を求める姫様。
強い風が吹いて、大きなぴかぴかの窓に雨粒を叩きつけた。
雨粒は人を結ぶ線と重なって、頭のなかで弾け飛んだ。
ああ、そうだ。
僕には奥の手、オタが目の色を変えて飛びつくワイルドカードがあったんだ。
「オタ。君は確か僕が持ってるエアジョーダンに興味があったよね。企業プレミアム。>邪魔だから捨てようかと思ってたとこなんだけどさ」
効果はテキメンで、すぐにレスがあった。
「もうすこしお待ちください。分かり次第すぐにお送りします」
オタの事だ、どうせ放っておいたんだろう。
最寄駅の改札を出ると、彼女はもう来ていて、駅前のパン屋のカフェでコーヒーを飲んでいた。
パン屋のガラスに貼られた大きなロゴを通して、僕に手を振った彼女。
こういう時って、不思議にすぐ気づくんだよな。
会計は済ませてあるのか、彼女はすぐに腰掛けてたストールから降りると足早に店から出てきた。
ぼけっと立ったまま彼女を見つめる僕。
白いコート。
キャラメル色の細い、踵の高いブーツ。
長く降ろした髪。
上品な化粧色。
心底驚いてしまった。
デートクラブから呼び出されてくる女の軽い匂いなんてどこにも残ってなかった。
初めて会った時の子供っぽさも、酔いつぶれてホテルまで運んだ時のだらしなさも、昨夜泣いた可哀想な姉としての彼女もどこかへ消えて、近づき難いどこかのお嬢様が目の前にいた。
過去を詮索するなんてとんでもない。
どこか存在感のない綺麗さ。
僕はすぐに、彼女を家へ連れ帰った時の
「家族全員に対する悪影響とそのダメージ」
について考えてみた。
上がりまくる親父。
キョドる弟。
白いコートを着た雪女が室内を完全冷凍したみたいに、空気もろともカチンと凍りつかせるだろう。
大げさなアメリカ製カトゥーンの1フレームが間違いなく我が家に再現されるだろう。
僕らは連れ立って家へ向かった。
だって、そうするしかないもんな。
小さな商店街を抜けるとすぐに郊外の田園風景。
風の匂いに草の香りが混ざる。
それでもどこからか運ばれてきた車の排気と、人口肥料の鼻をつく匂いも微かにあって、とてもノスタルジックからはほど遠い。
彼女は自分の家のまわりの風景に似てると言った。
そうだね。
都内も郊外も都市近辺はどこも似ている。
画一化された緑化計画と企画品でつくられた建造物。
どこもかしこも、まったく同じプラスチックがシームレスに並んでるように見える。
何だか生きてるみたいだ。
現実は非現実的で、夢物語が現実。
映画のストーリーやテレビドラマの中に生きながら街に溢れる人。
いつの頃からか、僕は姫様をこの世のものでなく、どこかしら遠い夢の世界の住人として捉えるようになってた。
どうしようもない現実の中で苦しんでる姫様を。
これは推測だけど、彼女がお守りとして後生大事に持ち歩いてるクマのぬいぐるみは、きっと彼女が小さかった頃、もっと小さかった弟に作ってあげた大事な品。
首に下げれるように首のとこに紐通しが残ってて、今ではそこが解れて中身のビーズが飛び出しそうになってる。
このクマがつまり僕そのもの。
現実には存在するのに、存在しないもの、意識のないものとして扱われる、でも愛すべき対象。
クマのご主人様はとうの昔に死んだ。
でも造り手はいまでもその名残と記憶を愛してやまない。
彼女が何年も前に失った弟は今なお彼女の側にいて、彼女を苦しめてる。
つまり間違いなく実在する現実。
「ただいま」
と言って玄関で靴を脱ごうとしている僕に、母親は愚痴の1つも浴びせてやろうとして飛び出してきたに違いない。
「どこをほっつき歩いてるのこの子は」
そう言ったきり口を開けたまま動かなくなってた。
白いコートを着た雪女の犠牲者第一号。
彼女は控えめな演技で
「こんにちは」
だか
「お邪魔します」
とか、とにかくそんな事を言ったと思う。
母は、彼女を見つめたきりしばらく動かなかった。
居間へ彼女を通してからが見ものだった。
馬鹿な弟も、普段は陽気な親父も、正座したきり、それこそ借りてきた猫みたいに大人しくなってた。
言葉がありえないほど丁寧になり、何度も自分の後ろ頭を叩きながら喋る弟は、全く馬鹿そのものだった。
中学の時の同級生で、ばったり駅で何年かぶりに会った、と紹介しておいた。
彼女と軽く打ち合わせてたので、スムーズだった。
とはいえ、今までまったく女気のないモテナイ息子がいきなりこんな美人を連れ帰る説明としてはやや足りてなかったのかもしれない。
ただ、彼女にはアドリブのセンスもあって、高◯生になってから少しだけ付き合いがあった事。
僕の母が育てていたセントポーリアの鉢植えを、実はこっそり一株分けてもらってた事。
そんなわけで、お母様にはお伺いして一言お礼を言っておきたかった事。
そんな話をさも事実のように、柔らかな笑みで語ってくれたので家族の注意はそこに注がれた。
これには僕も驚いた。
居間に通されるまでのわずかな時間に彼女は何をみたんだろう。
そしてそこに反応したのは僕だけじゃなかった。
母が、僕が高◯生の頃に、鉢植えがいくつも盗まれたけど、あれはおまえの仕業だったのかと言い出した。
実のところ母はかなり喜んでいた。
自慢も多分に入ってる。
盗まれるほどの自分の技量に対してと、姫様が草花に興味があった事。
もっと驚いたのは、それきり母と姫様は意気投合してしまったという事。
世の中何が起こるかさっぱりわからん。
母が、もう充分だと言う姫様に、食べろ食べろと御節の残りを勧め、親父は姫様にお酌してもらって、悔い無しといった感じだった。
馬鹿弟は馬鹿よろしく、デジカメを持ち出し彼女を撮影すると言い張り、彼女にやんわり否定されて、心底落ち込んでた。
夕方になって僕の部屋を見た彼女が、窓辺でやけに悲しそうに外の風景を眺めてるのを見て、僕はそろそろ行こうか、と切り出した。
彼女が帰ると聞いて、すっかりしょげてしまった親父。
駅へ向かう道の途中、泣き出してしまった姫様。
昨夜のように激しくではなかったけど、静かな鼻をすする音が夜道ではやけに響いた。
何でわたしの両親は死んでしまったんだろう。
何で私の弟は、まだ幼かった私を最後に1人残して死んでしまったんだろう。
その理由が知りたい。
この世で起こるありとあらゆる事には何かしら理由があるんだと思う。
彼女はたどたどしい口調で、見つからない言葉にイライラしながらそんな事を言った。
「ヒロはいいね。優しい両親と弟がいて」
彼女はそう言ったきり黙りこんでしまった。
セントポーリアの鉢植えの嘘とトリックを、ぜひ聞いてみたかったけど、とてもそんな雰囲気じゃなかった。
渋谷駅に向かう山手線は酷い混みようで、姫様は僕にもたれてご就寝。
まんざら悪い気はしなかった。
僕のシャツが姫様のヨダレで汚れようとも、ファウンデーションが付着して色が変わろうとも、僕は姫様が起きないように、電車の揺れに合わせて体を捻る。
電車が代々木駅のホームに滑りこむのと同時にケータイが震えた。
オタからだった。
珍しく長い文章で、2度に分けられて送信されてきた。
「お待たせ。苦労したよ。この真っ黒な画像が本当に真っ黒、例えば#000000なんていう単色で塗られているなら10kなんていう重さにはならない。実際にはもっと軽い。じゃあなんでこの重さになっているかというと、それは間違いなくこれが画像データだから、ピクセルの配色にはバラつきがあるって証拠だ」
オタのメールに目を通した瞬間、それがオタにとっては造作もない事、簡単に見破れるトリックだって事がすぐに分かった。
おそらく交換条件のスニーカと等価値になるよう、自分のやってる事に威厳を与えるべくもったいぶってるんだろう。
講釈をすっとばして、肝心の部分を探す。
「ピクセルが数色あるとして、その配置に意味があるとするとこれは何かコードを表してるのかもしれない。統計解析してみればすぐに分かるんだけど、生憎そんな高価なアプリは研究室に…」
ウザいな。
「ふと思ったんだけど、これって画像をモノクロ変換してコントラスト調整すればいいんじゃないかなと思ってさ。ビンゴ!これだ。思ってたとおりだ。インド、デリーのペダルタクシィの画像が一枚。マドラス、チェンナイのペダルタクシィの画像が1枚。ボンベイ、ムンバイのペダルタクシィの画像が1枚。デリーはあるいは違う場所かもしれない。院に通ってるインド人に確認してもらった。まあ、場所がどこにせよ全部輪タクの画像ってのもなんだかな、と思ってさ。で、ここからが重要。タクシーのナンバープレート。全部あとで手が加えられてる。数字ね。デジタルで。酷い加工ですぐにわかるよ。とにかく送り返しとく。それにしてもさ。何でこの製作者はこんな手のこんだ事をするんだろうな。多分どこかにスタンドアロンで稼動してるPCがあって人が手でデータを運んでるわけだろ。嬢様がさ。秘密は守られてるだろうに。とはいえ、こうやっておれ達が覗き見してるわけなんだけどさ」
ありがとうオタ。
やっぱりお前は最高だ。
渋谷駅に到着しても、姫様はムズがって降りようとしなかった。
眠いのだ。
仕方ないので、持ち上げて運ぶ。
うー…と姫様のうなる声。
今朝から、ずっと泣いてたからね。
少し気分転換しよう。
そんなわけで、僕らはハンズ近くのアーケードに繰り出した。
迫り来るゾンビを撃ち殺すゲーム。
そいつをまず2人でやった。
傍で見てると簡単そうなんだけど、実際に遊んでみると結構難しい。
弾のリロードが遅れてやられたり、避けようとして自分の体が動いたり。
一番辛かったのは銃を水平に長時間構える事だった。
姫様はすぐに耐えられなくなって、腕を降ろしてしまう。
で、ゲームオーバー。
すぐに追加コインを投入して再度参戦しても、あっという間にやられてしまう。
僕は途中から射撃を中止して、彼女を見ていた。
笑顔が戻っていて、楽しそうで、熱中している。
腕は平気かい?と大声で聞くと、
「よゆ〜」
とやはり大声が返ってきた。
無理して誘ってよかった。
レースゲームをやり、それからちっとも拾えないUFOキャッチャーに粘着して、喉が渇いたところで、アーケードを後にした。
東急デパート前でタクを拾い、昨夜姫様が誘ってくれたあの店へ。
彼女は昨夜のような無茶はもうしなかった。
あの彼女の変わりにバーテンがやって来て、僕に名詞をくれた。
普通サイズの変則で、ひょろ長く、白黒のキザったらしい名詞。
彼の発音は今風で、浩二でも、孝治でもなく、自分はコウジだと名乗った。
注文があればなんでも。
彼はそう言って店のホールカウンタへ歩いて行き、そこに腰を降ろした。
彼がけたたましい音楽の中に去ると、姫様は中指を立てて、僕にこう言った。
「あいつ、ちょーきらい」
僕はこの店の中に間違いなくある、どこかしら冷たく感じる、よそ者に容赦ない排他的な空気よりも肌に合わない音楽の方が気になった。
でも、1曲だけ僕にも分かる曲があった。
YesのYou and I。
僕が生まれるずっと以前に書かれた曲。
大好きだ。
へぇ。
こんな場所でもかかったりするんだな。
僕が口ずさむと姫様が、おや、という顔をして。
それから突然「カラオケ」に行こうと言い出した。
店を出ようとドアを開くと、雨脚が強くなってた。
今年の正月はなんだかずっとこんな空模様だ。
弱い雨が降ったりやんだり、忘れてると強く降って気にすると弱くなる。
カラオケ店は歩いてすぐらしいけど、雨の中歩くとなると辛い距離だ。
寒さも水滴と湿度のせいで堪えるし、姫様の鼻の頭はもう真っ赤だった。
その時後ろから誰かが声をかけてきた。
「よう」
と言って傘を差し出してくれたのは、昨夜の彼女だった。
店の屋根というか、突き出したわずかなでっぱり伝いに歩き、そこで止まってる僕らを見かねて、傘を持ってきてくれたらしい。
「事務室の窓から見えるんだよね」
彼女はそう言って笑った。
「助かるよー、カナ。仕事はもう終わり?」
「うん。事務室で着替えて煙草吸ってた。邪魔しちゃ悪いと思ってさ、声はかけなかった」
カナと呼ばれた子は、防寒用のアーミーコートを着ていて、動物の毛が縁に巻かれたフードいっぱいにドレッドが広がってて、雌ライオンにもたてがみがあるとしたら、きっとこんな感じだ。
引き締まった体。
女っぽい服装じゃないのに、でもどこか色っぽい。
怒らせると、Xmanのウルバリンよろしく凶暴なライオンに変身しそうだ。
カナと姫様はしばらく立ち話をしていた。
会話の途中、カナがコートのポケットからフロッピィを取り出して、姫様に渡すのを僕は見逃さなかった。
煙草を受け取るみたいに、特に気に止める様子もなくバッグに放りこむ彼女。
白い封筒にそれは包まれてたけど、間違いなかった。
持ちやすいように封筒が折られてたために、サイズと形状からフロッピィだと特定できる。
「カナさ。暇だったらカラオケ一緒に行かない?あとは帰って寝るだけでしょ?」
彼女はバイバイする代わりに、カナにそう言った。
「カラオケ?これから?」
「うん。ヒロが歌いたくて仕方ないんだって」
言ってないよ。
歌いたいなんて欲求は生まれてこのかた一度だって持った事ない。
そりゃ、部屋で好きな曲が流れてれば口くらい動かすけど、歌いたいって気持ちとはちょっと違う。
カナが笑いながら僕を見、僕の顔つきから姫様の冗談を見抜くと
「おっけい。いいよ。わたしも歌いたい気分」
意見が一致した途端、2人は雨の中カラオケ店目指して一直線にダダダッと駆け出した。
傘なんて必要ないじゃん。
二人の後をとぼとぼついて行く僕。
292 名前:70 ◆DyYEhjFjFU 投稿日:04/09/04(土) 18:45
椎名林檎、椎名林檎、椎名林檎と3曲続いた。
4曲目はまた姫様で、椎名林檎だった。
5曲目のカナの椎名林檎がはじまると、姫様が楽曲リストを僕に投げつけてきた。
「ヒロも歌うの。ほら早く入れて」
冗談ぽく
「椎名林檎なんて歌えないよ」
と言うと、熱唱中のカナが突然大笑いした。
「何でもいいですよ。好きな曲。ほら入れて」
マイクを通したデカい声で急かされる。
そういえばはじめてカナを見た時も急かされたっけ。
だけど困った事になった。
気取るわけじゃないけど、この楽曲リストは僕には無意味。
邦楽は聴かないから、知ってる曲なんてたぶん登録されてない。
だからカラオケにはほとんど行った事がなかった。
行ってもまわりをしらけさせるし。
中学の頃、僕はイギリス産ロックにはまった。
過ぎ去った時代の過去の遺物。
ザ・フーにはじまって…。
それにしても、何か探すかとぱらぱらめくるフリだけでもする。
そこで五十音リストのアーティスト欄の
「E」
にイーグルスを見つけた。
へぇ。
イーグルスなんてあるんだ。
一曲だけでも歌っておかないと。
って事で
「言い出せなくて」
を姫様に指で示した。
数桁の識別コード。
これならなんとか歌えそうだ。
姫様は慣れた手つきでリモコンのスイッチを押す。
入力が完了した途端、緊張に襲われる。
どこにいてもそうなんだよな。
目立ってしまうシチュエーションでは、僕は必ず緊張する。
緊張する事がおかしな場合でも、心拍数が急カーブを描いて高まり、挙動不審に陥る。
可愛い女の子ふたりのいる密室で、心拍数の高まる男は沢山いるだろうけど、挙動不審になる男は、多分少ないだろうな。
器の小さい男。
楽しめない男。
周りを白けさせる男。
つまり僕。
イントロが始まると、緊張はピークへ。
そこからはもう覚えてない。
テレビモニタに表示される英文の歌詞を必死に追った。
聴いた事のない曲が流れると、自然と視線が集まる。
マイクを持った者に。
こういう事は以前にも経験した事がある。
歌い始めた途端、皆は興味を失うんだ。
そんな曲知らない。
何歌いたいわけ?って具合に。
歌い終わると、次の入力がされてないのか、異様な静けさが戻ってきた。
僕はたった一曲のために汗までかいてた。
カッコ悪すぎだ。
場を取り繕おうとして、次の曲、彼女達の好みを入力するために触った事もないリモコンに手を伸ばす。
次の曲は?と促すように、その実、哀しみに満ちたすがるような視線を2人に送る。
その瞬間だったと思う。
カナが
「すげぇ」
と言った。
「かっこいいじゃん」
それから口調を変えて、僕を見て
「イーグルス私も好きですよ。あの。in the city歌えないですか?」
思ってもみなかった感想と展開。
英語の歌詞は大好きだとカナが言ってくれた。
「うん、歌えると思う」
あろう事か僕は2曲連続の暴挙に出た。
姫様はニコニコ笑ってた。
そこで注文してあった簡単な料理が遅れて届き、三人はゆっくり盛り上がっていった。
椎名林檎はさすがに飽きたみたいで、Jwaveで聴いた事のある当時のヒットナンバーが延々と続く。
女の声は好きだ。
高い域でさえずるようなアリア。
心地よくて僕はいつの間にか眠ってしまってた。
いつか見た夢。
子供の頃、近所の空き地に寝転がって見上げた冬の空。
羽ばたく雀。
姫様が手を握ってくれてたと思う。
多分。
彼女の気配がすぐ側にあって、マイクの振動と体を揺するタイミングがシンクロして伝ってくる。
派手な雷が近所に落下して、停電の中、闇に包まれて母の側で眠った幼かったあの日の夕方。
あの闇と同質の、暖かい安心してじっとしていれる闇がここにもあって、僕はどこまでも深く、彼女の傍らで眠った。
姫様に揺り起こされた。
姫様の顔が目の前にあって、僕を覗きこんでた。
姫様の頭のうしろ、直線で結ばれた先にダウンライトがあり、逆光で顔が見えない。
僕は再び目を閉じ、記憶を手繰って姫様の綺麗な顔を目の前の気配に重ねる。
イメージが重なったその刹那、僕は半身を起こして姫様の髪に触れた。
煙草の煙が緩やかに流動するこの部屋で、姫様の髪も煙草の匂いがした。
「カナはもう帰った。午前中はたいていダンスの練習なんだって」
ああ、そうかなるほど。
彼女のあの筋肉はそのためなんだな。
しなやかな野生動物のような四肢。
ゆっくり記憶を再生してみる。
そういえば、彼女はあまり笑わなかったな。
普通の女の子ほどには。
大きい瞳がよく動いて、僕を監視するように見てたっけ。
鼻を擦る癖があって、両手はたいていポケットに納まってた。
外見ほどにはキツくなくて、話し掛けると、倍の量の言葉が返ってくる。
彼女は、いい、とか悪いとか、そんな言葉をよく使った。
いい曲だね。
とか、その曲は嫌い、ではなく悪い曲、と言った。
そんな具合に。
いつだったか、仕事で一緒した若いイラストレータの女性の事を思い出した。
彼女は企業に押し付けられた配色を「悪い色」と言った。
もちろん色の配合に、良いも悪いもないのだけど、そんな考え方をする彼女に僕は密かに嫌悪感を抱いていた。
仕事の進行に差し支えないかなと、そんな心配をしていた。
だけど、彼女もまたプロだった。
彼女の指定通りに進めると、最終的には彼女が最初に力説した漠然とした曖昧な言葉で押し切った
「良い色」
が出来上がった。
僕にもそれは理解できた。
問題があるとすれば、僕はいまだにそのプロセスを上手く説明できないって事。
間違いなくそこに存在するのに。
論理的には上手く紐解けない。
姫様がいて、カナがいて。
僕はどれだけ姫様の事を理解できてるんだろう。
もちろん音符の連鎖に、いいも悪いもない。
でも彼女は、僕の歌った歌を、いい曲と言った。
面倒だな。
単純に考えてみようか。
カナから見た僕は、姫様の側にいる男として相応しかったんだろうか。
姫様はバッグからピンクのクマを引っぱり出して、僕に何度もキスさせたり、パンチしたり、意味不明な言葉で喋りかけたり、たまにジンジャーエールを口に運んで、膝枕している僕の顔に垂らそうとふざけてみたりした。
「ねえ」
と僕は言った。
ん?と彼女。
「今日の昼間。僕の家で何を見たんだ?セントポーリア。あの嘘は僕も驚いた」
彼女の口元に笑みがこぼれる。
「さあ、何故でしょうねぇ」
「推理してみようか」
「いいよ。やってみて」
彼女の膝は最高に心地よかった。
何度も寝返りをうち、さも考えてるふうを装ってその感触を楽しむ。
「少なくとも君はセントポーリアに詳しい。その栽培方法を知ってる。これは間違いないよね」
彼女はジンジャーエールを口に含んだまま、うんうんと答える。
「問題は、なぜ僕の母がセントポーリアを好きだと分かったかって事なんだよね」
「うんうん」
「家にセントポーリアの鉢植えはひとつもなかった」
「うんうん」
「機材かな。有名なメーカの何かがあったとか。栽培に適切な鉢が転がってたとか」
彼女はクマを僕の顔めがけてダイブさせた。
「ピンポーン!正解です。玄関にね。たくさん栽培用ライトの残骸が残ってたの。家のおじいちゃんが使ってたのと同じメーカ。それから居間の隅にあった空っぽのガラスケース」
「ふーん。なるほどねぇ。でもさ、そんな沢山育ててなかったかもしれない」
「それはあり得ないですねぇ。鉢植え自体は小さいもん。あのライトの量は昨日今日始めた人じゃないって事くらい分かる。単純にいっても10鉢。多分それ以上あったんじゃないかな」
「ふーん。なるほどね」
「それに間違ってたとしても、ヒロのリカバリに期待してたし」
おいおい。
僕はテーブルの上に転がってたジンジャーエールのペットボトルのキャップを何となく、ピンクのクマの頭に被せてみた。
あれ。
ぴったりだ。
トルコの兵隊みたいだ。
彼女はキャッキャと笑った。
「よかったねクマ。明日はコカコーラのキャップの帽子を買ってあげるね」
彼女はそう言って両手でクマを抱いた。
きっと幾晩もそうしてきたせいで、クマのフェルトのボディはそんな色になったんだろうな。
汚いぬいぐるみは、愛された証拠か。
ホテルに戻ると僕は真っ先にPCを起動した。
姫様がシャワーを浴びてる間に確認しておきたかった。
画像は届いていて、3枚ともいっぺんにブラウザに突っこむ。
酷い画像だった。
何かフィルタでも施したんだろう。
モノクロのザラザラした感じは、何度もファクスして劣化したようにも見える。
まるでアンダーグラウンドのロックバンドのチラシだ。
オタの言ったナンバープレートを確認する。
すべて6桁の数字。
たしかにそれは、あからさまにコラージュされたように、輪タクのホロにアングルの補正もされないままくっついてた。
そもそも輪タクにナンバープレートなんて付いてるんだろうか?
とにかく考えても始まらない。
情報が少なすぎる。
僕は次に、彼女のバッグから白い封筒を引っぱり出した。
封はされてない。
中身はやはりフロッピィだった。
ブートして中を確認してみたけど、ファイルに触れる事はしなかった。
見てもたぶん何もわからないだろう。
このPCには画像処理用のソフトウェアがインストールされてない。
それに交換条件の分、オタにはしっかり働いて貰うとしよう。
オタのアドレスを呼び出して、そこに全部突っこむ。
gifファイルが1つ。
エクセルのファイルが1つ。
メモ帳が1つ。
全て送信が終わって、時計を確認した。
起動してから終了するまで10分。
ちょっと時間がかかりすぎかもな。
慎重にやらないと。
緊張感がなくなった時が一番危険だ。
僕は姫様の秘密を覗き見している。
これは背信行為なんだと自分に言い聞かせた。
やるからにはクールにやろう。
完璧を目指そう。
カーテンを開け、窓の外を見ると雨脚が強くなってた。
眼下に広がる東京の街は死んだように静まりかえっている。
街灯の丸いドーム状の明かりとネオンサイン。
僕らはついさっきまで、このミニチュアの街の中にいた。
ここから見ている風景は、どこか遠くの街、子供の頃何かの本で見た異国の街のようにも思える。
絶対に訪れる事ない、本当に実在するのかどうかさえ怪しい説得力に欠ける噂と、重みのない貼付写真でしか知りえないどこかの街。
僕は時どきこんな風に考える事がある。
自分にとっての現実なんて、たかだか半径2メートル。
その目の届く範囲、そのボール状の球体の内側に入ってきた何かだけで成り立ってるんじゃないかって。
大抵の人は、その球体の外には自分の知りえない巨大で膨大なデータが流れてる事を信じて疑わない。
でも、本当にそうなんだろうか。
僕の手の届かない場所は、じつはからっぽ。
僕がノックしたドアにだけ電源が投入され、入り口のネオンがチカチカと瞬いて、はい、スタート!って具合。
僕は時々、自分のそんな閉鎖的な考え方を、自分の意志とは裏腹につき破ってみる事がある。
漫画に出てくる、いびつな海上機雷の腕みたいに球状の現実と夢の境界ラインを変化させて、その外にある何かを探ってみようとする事がある。
それは、獲得しえなかった仕事の後日談の裏側だったり、今回のように、偶然出会った姫様だったりもする。
結果は様々で、もちろん中には知らないほうがよかったと思える事もある。
姫様はクリスマスの夜、サンタクロースが僕にDHLで送りつけた、たちの悪い冗談だ。
異空間に広がる針葉樹林のどこかの漫画みたいな家のなかで、意地の悪いサンタは、僕がいずれ来る現実に叩きのめされる様を、今か今かと待ち望んでるに違いない。
構うもんか、と僕は思った。
姫様がクマを大事にするように、僕にも彼女が必要なんだ。
バスルームのドアが開いて姫様がでてきた時、僕は寝そべってテレビを見ていた。
深夜枠の馬鹿なお笑い。
ところが、その笑いは巧妙に練られており、作り手が視聴者を馬鹿にするような構成になっていた。
見ているうちに引きこまれ、姫様がベッドを揺らして近づいてくるまで僕は口をぽかんと開けたまま、間抜け面でブラウン管を凝視してたんだと思う。
風呂上りの良い匂いにつられて、ベッドの揺れる先に目をやった僕は、おや?と訝った。
まだどこかへ出かける気でいるのかな姫様は。
丈の短いバスローブの下にはもう出かける下準備が整ったのか、細い脚には白いストッキングまでつけている。
「お出かけですかお姫様」
「なぜ?どこにも行かないよ?」
姫様はそう言ってサイドテーブルの上にあるメインライトのボリュームを摘んだ。
まるで映画でも始まるみたいに、部屋から光が失われてゆく。
姫様は僕の視線の先につま先で立ち、悪戯っぽく微笑んでからバスローブを腰の位置で絞った、タオル地のベルトをゆっくり抜きとった。
「気に入ってもらえたかな?」
僕は言葉が見つからなかった。
無言。
この手の写真のお世話になった事は何度もある。
だけど現実に、目の当たりにした事は一度もない。
多分最初で最後になるんじゃないかなとも考えてみたりした。
ガータベルト。
ガーターベルトだっけ?
ああ、そんな事はどうでもいいや。
姫様は全体が同じデザインでまとまった、何と言うかかなりセクシーな下着を身に着けていた。
華奢なチェストを覆うベアトップのビスチェから垂れる4本の紐の先に、4匹の金属でできた蝶がいて、そいつが太もものまわりにとまっている。
下着全体にも青い蝶が、刺繍と絡んでプリントされてた。
凝視していると下着は下着でなくなにか別のもの、彼女の皮膚のようにも見えた。
眺めてる時間が長くなればなるほど、姫様に触れなくなるような気がした。
綺麗すぎるんだよ姫様。
美術館にやってきた巨匠絵画。
馬鹿馬鹿しくも近寄る事を禁止された来場客。
君が僕を客と割り切ってくれてたら、どんなにか楽だったろうな。
君は僕の気持ちまで満たそうとした。
それは多分、君的に言えば、嬉しかったから、なんだろうけど。
刺激も、あるピークを過ぎると人の脳はそれをカットするためにβエンドルフィンを放出すると何かの本で読んだ。
安心して、落ちつきたい。
僕はまさにそんな気分だった。
持ち歩いてたCDプレイヤーからCDを取り出してPCで再生した。
音は酷いけど、ないより全然いい。
たしかSmashing Pumpkins。
僕が好きに選んだ曲だけを集めて焼いたCDで激しいのはカットしてある。
姫様といる時に聴きたいと思ってたけど、これまで機会がなかった。
ベッドに2人で横になって、それから取り留めのない話をした。
姫様は自分の大胆な下着姿に、僕が引いたと誤解した。
きっと喜んでもらえると信じてたみたいだったし、そう口にもした。
もちろん喜んださ。
でも説明するのがひと苦労だった。
姫様は男の生理を完璧には知らない。
いや、知りうる機会がなかったんだろうな。
だからお願いだから着替えないで欲しいと、僕は懇願した。
ちょっとは寒いかもしれないけど、シーツにくるまってればいいし。
コーヒーでも飲もうか?レモネードのほうがいいかな?さもなきゃ暖かいスープ。
見ていたいんだよ姫様。
僕のそばにいてほしい。
何度も挑戦した結果、この気持ちの説明は無理だと悟った。
僕は君を娼婦だとか商売女だとか、そんなふうには思っていない。
その下着は素敵だし、まったくそういう事とは関係がない。
とはいえそれを伝える術がなかった。
「好き」
だとか
「愛してる」
からだとかそんなお決まりの台詞を持ちだすのは抵抗があったし、しかも微妙に違う。
ただ君が綺麗だと思ったんだよ。
ほんとうに。
嘘偽りなく。
ずっと見ていたかったんだよ。
姫様は子供の頃の話をしてくれた。
ある日突然消えてしまった父親の事。
母親は父の失踪について、幼かった兄弟には何も説明してくれなかった事。
それから1年もしないで自殺した母親の事。
言動がおかしくなり、育児の一切を放棄して自室に閉じ籠もり気味になった事。
弟は姫様の後をついてまわり、後追いの年齢をとっくに過ぎてるのに決して離れようとはしなかった事。
彼女は自分のいた世界が変わり果ててしまった事を初めは信じられなかったと言った。
それは永遠に普遍的で、そこにいる事はごく当たり前の約束された事でしばらく我慢すればまた元通り、何事もない毎日が戻ってくると信じていた。
と。
ところが、父親の妹の家族として再編成されたあたりから子供心にも、こいつはおかしい。
自分と幼い弟は見知らぬ世界に住む事になったのだ。
と、ようやくその時になって、耐えがたい悲しみに襲われた。
近所の公園が自分と弟のいる場所であり、実際そこで過ごす時間が多かった。
食事は一日一回だけ。
夜眠る時間なってようやく暖かい部屋に入れた、と笑いながら言った。
それでも暴力に晒されなかっただけ、姉弟はついていたのだとも言った。
公的施設の門をくぐる事もなく、むしろ姉弟はいつも一緒で、あの公園のいたるところに弟の思い出があり、たまには親切にしてくれる大人もいて、熱い夏の盛り、アイスキャンディや花火をもらう事もあった。
「悪い思い出ばかりでもないんだよ」
と。
僕は何も言わなかった。
肩を抱き、ただ彼女の唇から漏れる言葉に耳を傾けた。
姫様が公園の隅で弟と一緒になって蝉を追いかけてた夏、僕はどこで何をしていたんだろう。
弟とゲームソフトの奪い合いで喧嘩をして、泣きわめく弟にトドメの蹴りをいれた時だろうか。
それとも、弟が僕の大切なCDに落書きした報復として弟専用ゲームマシンのソフトウェア接続口に接着剤を流しこんだ時だろうか。
僕は居たたまれない気分になった。
でも、僕は憐れんでいるわけでもなかった。
姫様の古い時間は残念ながら過ぎ去った。
悲しいのは、今ここにいる姫様が悲しんでるという事。
僕の目には彼女は自暴自棄に陥ってるようにみえた。
自分の未来は不要なもの、弟が消えた夜からこっちを残酷なオマケとしてとらえている。
だけど今にして思えば、そんな僕の分析こそが甘く幼稚だったわけだけど。
Smashing Pumpkinsを3回ほどリピートしたあたりで、姫様はウトウトしはじめた。
シーツでしっかりくるんであげて、ヒーターを高めの温度に再設定した。
眠っているようで頭はしっかりしていて、それでいて、複雑な質問には答えられない。
彼女は何か話をしてほしいと言った。
しばらく考えたあとで、僕は夢の話を持ち出した。
昨夜みた夢。
いや、いつだっていい。
嘘だっていい。
彼女は興味深々で、早く早くと僕を急きたてた。
僕は病院の待合室にいる。
風邪をこじらせたのかもしれない。
理由はハッキリとしないけど、僕はそこにいて、ぼんやりテレビを眺めている。
急患ではなかったんだろうね。
僕は焦ってはいなかったし、行き交う看護婦も僕には無関心だった。
ただ順番がまわってくるのを大人しく座って待っていたんだと思う。
テレビのチャンネルは退屈なワイドショーで、そのうち僕は、もっと退屈そうな医学雑誌を本棚から引っぱりだした。
ほら、よくあるでしょ。
退屈さを紛らわすために、もっと退屈な何かを始めてしまう事って。
雑誌の最初のページは特集でナノテクノロジーの話だった。
ナノテクっていうのは、驚くほど小さな世界の話。
細菌と同じくらいか、もっとちいさなロボットでもって体の掃除をしたり、場合によっては手術までしちゃう事もある。
でもさ、おかしな事にそこに書いてあるのはそんな事じゃなかった。
微細ロボットをつかって人を大量死させる計画とか、どこかの国がもう実験を始めてるとか、そんな怖くなるような話だった。
嫌気が差して雑誌を空席に投げ出し、それから僕はまたテレビに目をやった。
たしかその時だったと思う。
ワイドショーの画像が一瞬グニャと曲がって、それから緊張したアナウンサーを映し出した。
ほら、よくあるじゃん。
報道部からの生中継。
周りで忙しそうに走りまわるスタッフがいてさ。
そしてアナウンサーは、カメラの手前にいる誰かと話をして、視線をカメラに戻さないままソビエト連邦が崩壊したと言い、ついで旧連邦軍の一部が日本に侵攻を開始したと告げた。
どれほど怖かったか。
テレビはそれきり何も映らなかったし、病院はソビエト軍に制圧、閉鎖されて僕は外にでる事もできなかった。
戦争になったの?と彼女は聞いた。
「さあ、どうなんだろうね」
と僕は姫様の頭を撫で、
「そこでいつも夢は途切れるんだよ」
と説明した。
「よく見る夢?」
「頻繁には見ない。でも子供の頃から見てる怖い夢。侵略軍は子供の頃は火星人だった。いつの間にか僕から空想力がなくなって旧ソビエトになったけどね。でもさ、いつも本当に怖いんだよ。毎回新しい恐怖があって、それに慣れる事はないんだ」
「わたしも怖い夢みるよ」
と彼女は言った。
「誰にだって怖い夢はあると思う。気にしない事だよ」
「ヒロは死んじゃう?えっと、その夢の中で」
「死ぬ事はないね。途切れるから。僕が味わうのは恐怖だけ」
「私は死んじゃうの。夢の中で」
「誰かに殺される?追いかけられて?」
「ううん。自殺しちゃうの。ビルからジャンプして」
姫様はアクビをして、すぐに眠りに落ちた。
半ば寝た状態での話だったから、脳の大半は寝てたのかもな。
もうじき夜が明けようとしていた。
5日目の朝。
姫様がセクシーな下着姿で眠りについたあと、ケータイに着信があった。
送り手はオタで、メッセージはPCで確認してほしいとの事。
早いな。
凄い士気の高さだ。
PCを起動してメールを確認すると、数時間前に送付したファイルの解説がもう届いてた。
「ヒロくん。確信とまではいかないけど、今回の中身は当たりだ。今まで意味のなかったジグソーパズルの断片に、収まるべき位置を指示する事ができるかもしれない。最初にまず確認しておきたい事がある。どうにかして、嬢様の本名を調べる事ができないかな。お前は嫌がるかもしれないけど、彼女のバッグをひっくり返してまず免許証を調べる事を勧める。彼女の本名は、佐藤恵子。19歳。国内での運転免許取得済み。その若さでアジアのほとんどの国と、ヨーロッパの数ヶ所を旅した事がある。広東語を少し話せる。それからジュネーブ商業銀行に口座を持ってて預金額は日本円で2800万円。さらに詳しい説明は、彼女の免許証の確認の後で。もちろんお前には、彼女のバッグに触れないという選択肢だってある。オレにでも理解できる。そのくらいは。ここから先は彼女の本物のプライバシーだ。お前は立ち入るべきじゃない。いずれにしても連絡をくれ。急いで。寝ないで待ってる」
大袈裟な事になっちまったな。
僕が知りたかった事はそんな事じゃなかったのに。
彼女のフロッピィの中身が分かればそれでよかったんだ。
こんな大事の予定じゃなかったんだ。
僕はオタに返信した。
「もう充分だよ。ありがとうオタ。ここで降りる」
そして、送信ボタンを押したあと、僕は彼女のバッグをひっくり返した。
説明し難い衝動に駆られて。
僕は確かに彼女のフロッピィを盗み見た。
でもそれは恐らくは解明できない難しい何か、で終わる予定だった。
彼女は何かよくない事、をやってるようだったし、あるいは僕の助力を必要としているのかもしれない、という勝手な思い込みもあった。
しかし、彼女の財布を開いてみる事、それは彼女のプライバシーに直接触れる行為だ。
そんな事はしたくなかった。
するつもりもなかった。
でも、僕はそうした。
何枚かのクレジットカードに紛れて、免許証は見つかった。
見覚えのある端正な顔立ち。
名前を確認すると、佐藤恵子と書かれてあった。
生年月日から彼女の年齢が19歳だとわかった。
規模だけなら新宿駅の方が上な気がするけど、東京駅はやけに広くて、大きい気がする。
遠いどこかとどこかを結ぶ、その拠点として考えてしまうからだろうか。
まあ、確かに新宿駅で感傷的な気分になったりはしないよな。
せいぜい気をつける事だ。
そんな気分はあまりいい結果を生まない事を、僕は経験則から知っている。
思い起こしてみると、説明のつかない奇怪な行動や、思わず赤面しそうな言動の元凶になってる場合が多い。
そんなわけで、僕は早くも芽生えた感傷的な気分を頭から追い出して姫様がやってくるのを待った。
急がないと。
あまりゆっくりしてられるほど時間が残ってなかった。
戻ってくるのは深夜になるかもしれない。
お互い迷ってしまわないように、東海道新幹線改札の前と指定しておいたのが良かった。
姫様が広いタイル張りのプラットホーム連絡通路を走ってくるのをすぐに捕まえる事ができたから。
2人でとりあえずコーヒーを飲み、それから横須賀へと向かう電車ホームを目指した。
お互いあまり口を利かなかった。
姫様は僕に寄り添うようにして、僕の腕をしっかりつかんで歩いた。
僕らが目指すのはかの地。
過去の時の中で永遠に凍りついて、絶対に溶け出す事のない場所。
彼女が過去にごっそり失った何かが、そこに散らばっているんだろうかと考えてみるけど、それは多分現実的じゃない。
彼女はただそこを訪れる事を望んでる。
自分の傷ついた気持ちがそこにある何かであがなえると、本気で信じてるわけじゃないだろう。
単純に考えよう。
彼女は弟に会いたがってる。
だから僕も同行する。
僕はウーロン茶と途中来る時に買ったベーコンサンドの包みを彼女に渡し、ホームに滑りこんできた電車に飛び乗り、彼女のために窓際の席を確保した。
僕は彼女がよく見えるようにと、対面の席に腰掛けたけど彼女が小声で
「手を握ってて」
と囁いたので、彼女の隣に座った。
客は疎らだった。
僕はCDウォークマンのイヤリングみたいなスピーカのRを彼女に渡した。
バッハの無伴奏チェロソナタ。
「気分じゃなかったら聴かなくていい。でもさ、こういう時は気分が落ち着く」
と姫様に勧めた。
電車がゆっくりと動き始めると彼女は僕の手をぎゅと握った。
頭をお互いにくっつけると、頭蓋骨が振動してボーンフォンみたく聴こえないかな。
僕の耳にあるのはL。
聴こえてきたのは小さな風の音だった。
車内を循環する空気の流れが、僕と姫様の頬をすり抜ける音だった。
横浜を過ぎたあたりから電車は闇の中へ。
小さく区切られた田んぼに突き刺さった地方企業の看板やガソリンスタンドのオレンジ色のライトが窓ガラスに反射した彼女の顔に重なって、視界の隅へと流れて消えてゆく。
疎らに見える民家の灯りはどこか淋しくて、多分彼女も同じように感じてたんじゃないかな。
僕の手を握る細くて長い指が彼女の気分にリンクして弱く開かれたり強く閉じられたりした。
寒くないかと訊くと、彼女は平気と答えてからバッグをごそごそかき回し、それからピンクのクマをひっぱり出して窓ガラスに立てかけた。
クマにも外が見えるように、頭のジンジャエルのキャップを少し捻って自立するように置いた。
クマは足が短くて、胴体が異様に長い。
そのバランスの悪さが愛らしくもあって見ていると切なくなってきた。
ずっと昔、このクマはこの風景を見た事があると彼女は言った。
ただ風景の流れは今とは逆で、東京駅へむかう電車だった。
その時、クマのご主人様はもうこの世界にはいなかったんだと言った。
僕はヘッドフォンのLを外して彼女にかけてやり、ボリュームを少し大きくした。
悲しい気分とかつらい気分を、音楽は押し流す力がある。
即効性はないかもしれないけど音楽には傷を癒す力がある。
僕はそう信じて疑わないタイプだ。
「ウ ル サ ク ナ イ カ ナ?」
口パクと身振りで彼女に聞いてみた。
たぶんボリュームサイズから僕の声は聞こえない。
彼女はすぐに理解して
「ヘ イ キ」
と答えてくれた。
僕の耳から音楽がなくなって、電車の規則正しい振動音だけになった。
乗客の話し声もしない。
電車は横須賀を目指していて、それはそんなに遠い場所ではないのに僕には長い時間に感じられた。
それは彼女の痛みが僕に伝染したせいだった。
彼女の僕の手を握るその爪が白くなっているせいだった。
横須賀駅に到着すると、僕はキオスクの自販機に走った。
ミネラルウォータとコーラを買い、コーラのキャップを外してミネラルウォータで洗い、残りをボトルごとゴミ箱に捨てた。
クマの新しい帽子だ。
姫様の口元に微かに笑みが戻ってきて、そいつが消えてしまわないうちに、タクシーを捕まえた。
話では車で5分くらいの距離らしいから、一気にあの場所を目指そうと考えた。
タクの運転手は陽気な中年で、駅前の美味いラーメン屋とか安く飲める居酒屋の話をひたすら喋り続けてくれた。
願ってもない事だった。
余計な事を考えなくて済む。
僕は帰りにそこへ寄っていこうと彼女に言い、運転手の喋りにいちいち相槌を打ちたいして面白くもない冗談に声を出して笑った。
運転手が本当にここでいいのか?と言った場所は確かに公園だったけど、想像していた雰囲気とは随分違っていた。
そこは公園ではなくて神社だった。
周りの空き地を盛り土で円形に持ち上げた感じの神社には滑り台とブランコと模型のような背の低い木が数本あるだけだった。
鳥居は朽ちて色がほぼなくなっていたし、酷い事に傾いていつ倒れてもおかしくない状態。
滑り台に砂場はなく、ブランコにはブランコが下がってなかった。
「ここでいいのかな?」
と訊いた。
彼女はこくりと頷いた。
僕は彼女に手を引かれて歩いた。
足下は暗くて木ぎれとかプラスチックのゴミが散乱しているようで、ここが人の記憶から置き去りにされている場所なんだとわかった。
明かりも音もなかった。
澄んだ空気のせいで星と月がやけにくっきりと見える。
吐き出した息が白い雲のように月に重なって、姫様は流れる影。
ずっとずっと長い事、彼女は渋谷の夜の闇の中で出口を失って苦しんでた。
だからここにある暗がりなんてちっとも怖がってない。
彼女の気配まで闇に溶けこんでしまった時、僕はなぜかちょっと安心した気分になった。
上手くいえないけど、彼女がここへ戻ってきた事を後悔してるようには思えなかったからかもしれない。
彼女が溶けこんだ暗がりを、僕も怖いとは感じなかったからかもしれない。
苔に覆われてしまった水道の蛇口。
風が砂をどこかへ持ち去った後に残った砂場だった場所の窪み。
首のなくなった狛犬。
高さの半分から下の全ての樹皮を失った樹。
その全部に思い出があると彼女は言った。
缶蹴りをやる時の陣地があの樹の生えてる場所で、子供達が掴んで回転するものだから、あの樹は樹皮を失ってしまった。
でも、こうやってまだ生きてるんだと、春にはしっかり芽吹くための準備をしているんだと感心したように言った。
あの夏。
彼女の弟もここで鬼ごっこやら、缶蹴りをやって走り回ったんだろうな。
彼女だってきっと同じ事をやったんだ。
痛いほどだ。
ホテルに戻ったのが午前1時。
体に力が入りにくく、おかしいなと思いつつフロントのソファに押しを下ろし、コーヒーを注文して部屋に届けてもらうよう頼んでエレベータに乗りこんだのが1時30分。
体が高熱を発して、とうとう倒れるようにベッドへ崩れ落ちたのがきっかり午前2時だった。
慌てたのが彼女だった。
どう見たって尋常じゃない僕の赤くなった顔に驚き、額に手を当てて騒ぎ始め、どこかへ消えたと思ったら解熱剤と風邪薬を持って戻ってきた。
ホテルの常備薬かな、とぼんやり考えながら飲む振りだけしてゴミ箱に捨てた。
いったん発症した風邪を押さえこむ特効薬なんてない。
飲むだけ無駄だ。
それに僕は薬が大嫌いなんだ。
彼女は僕を厄介事に巻き込んだと、かなり後悔しているようだった。
こんな冷えこんだ夜に横須賀の闇の中へ僕を連れ出したと、本気で思い込んでいた。
それは僕が言いだした事なんだ。
君じゃなくて、僕が連れ出したんだ。
僕が君を泣かせてしまった。
もしかすると姫様に会った最初の晩に、僕は風邪ウイルスに感染していたのかもしれない。
電車のつり革かもしれないし、会社の同僚のくしゃみを知らずに吸いこんだのかもしれない。
ひっそりと潜伏して、たまたま今夜発熱したんだよ。
僕はゆっくりとそう話して聞かせた。
子供を相手に話す口調で優しく言い聞かせた。
でも彼女はまったく聞き入れようとはしなかった。
あの神社の境内があまりに寒すぎたために、僕が風邪を引いた。
そう、まるで賽銭クジでも買ったみたいに、僕が風邪を引き当てたと本気で信じていた。
僕は眠った。
自分の意志とは関係なく、突然深い眠気に襲われて意識を失った。
それでも深夜に何度か目が覚め、人の気配を感じ、そしてまた眠る。
そんな事を何度も繰り返した気がする。
傍らの凄く近い位置に姫様のかすかな匂い。
あの甘ったるい香り。
女の柔らかな体温。
姫様が僕の手を握ってくれている。
このまま死んじゃってもいいや。
こんなに平穏で静かで安堵できる暗がりに包まれて逝けるなら、それでもいいや、と思った。
僕は夢を見た。
横須賀駅前の直線コース。
街頭の灯っていない暗闇の中をすさまじい勢いで滑空する。
タクで移動した道順をトレースして、僕はあの公園、神社境内に至る。
そこにあるのはあの夏の日。
僕の知らない夕方。
子供達の笑顔の群れと高揚した声と騒がしい足音。
その先に白い服の少女がいて、僕をじっと見つめていた。
いや、僕を通過して僕の背後にある何かを見つめていた。
時々蝉の声が聞こえた。
テレビから漏れてくるようにその音は鮮明で、ありえないほど近い。
僕は蝉の位置を探る。
少女が目の前にいる。
少女の手に握られたもの。
中国製の三十八口径。
首にはピンクのクマのぬいぐるみと、菊の紋章が刻印された赤いパスポートが下がっている。
少女は僕が見つめている事に気付いていないようだった。
素足で立ち、指先は泥だらけで、その指で鼻の頭を触ったために鼻の頭まで泥で汚れている。
その指先が三十八口径の遊底にも触れる。
遊低には遊びがあり、それが可動する事が分かると、指先はカチャカチャと音のする重たい金属を引っ張ろうとムキになる。
リコイルスプリングが、少女の指の動きに逆らって遊低を押し戻そうとした瞬間、三十八口径は少女の掌で踊り、乾いたパンという音を立てて地面に落下する。
一瞬の出来事。
たっぷりと汗をかいて目覚める僕。
目の前にホテルの部屋の天井があり、驚いた姫様がベッド脇から立ち上がって僕を覗き込む。
彼女は何か言っていた。
でもよく聞き取れない。
外はまだ暗い。
何時くらいなんだろう。
そんな事をぼんやり考えていると、姫様がボカリスエットのペットボトルを口に運んでくれた。
ありがとう、も言えないまま僕はまた眠りへと落ちる。
酷く辛かった。
風邪の熱も、今見た夢も。
遠いどこかからバッハの無伴奏チェロソナタが聞こえてきた。
姫様がヘッドフォンつけてくれたのかな。
僕のために。
音楽には傷を癒す力がある。
僕はそう信じて疑わないタイプだけど、彼女がしっかり握っていてくれる掌の触感には、到底及ばない気がした。
6日目の朝。
遅い時間。
姫様に揺り起こされて目覚めた。
最後の日だっていうのに、体がさっぱりいう事を聞いてくれなかった。
熱はいくらか治まってたけど眠くてしかたなかった。
彼女がコンビニで買ってきてくれたスープとパンを時間をかけて食べ、お礼を言って、彼女にはもう帰るよう勧めた。
楽しかった新年の数日。
もう充分だ。
これ以上引き止めても可哀想だし。
午後も眠って過ごしてしまうだろうし。
彼女は何も言わなかった。
僕の手からパンの包みを取って捨ててくれ、飲み切れなかったスープを引き受けてくれた。
それから彼女は裸になってベッドへ滑るように潜りこんできた。
ひんやりとした彼女の肌。
シーツの衣擦れの音。
長い髪が、可愛いおっぱいに垂れてふんわり揺れる。
「寝てないから、寝る」
と彼女は言った。
午後から雨が降りはじめた。
ホテルの部屋は物音1つなくて、午後の美術室みたいな冷たい静けさがあった。
サイドテーブルの上の時計の振り子がモーターの入ったガラスドームのなかでくるくる回転している。
午後1時を過ぎた頃に、彼女の寝息を聞いた。
僕の記憶はそこで途切れていた。
後に残ったのは浅い眠りの中で見た夢。
今となってはどうでもいい、アジアのどこかの街並みと一枚のフロッピィディスク。
暗い部屋の中でまた目覚めた時、彼女はもういなかった。
クローゼットからも、バスルームからも彼女がここにいた痕跡すらすべて消え失せていた。
シンクの回りに撒き散らされた化粧品も、ベッド脇にあった紙袋の山も、一切合切が突然この部屋から切り取られて魔法のように消失した。
電源が投入されて待機画面になったままのノートPC。
サイドテーブルにあった一枚のメモ。
「ただいまデート美少女無料キャンペーン中!1分以内にレスくれたヒロくんには、美少女添い寝の特典付き!会いたいよ〜。ヒロぉ」
30秒ジャストでレスした。
会いたいとだけレスしてから、場所を追伸した。
美少女って微妙な表記には触れなかった。
フロッピィの事もあるし。
自宅最寄り駅のカフェ。
改札を通過する乗降客が見渡せる席に姫様はいた。
ぎこちなく手を振る僕。
彼女は急いでやって来て、僕の額に手を当てると困ったような顔をした。
「熱があるね。全然よくなってない」
と言った。
彼女はスーパーに寄ってから行くと言い、タクシーを捕まえて僕を押しこんだ。
風邪もここまで酷いと、歩く事さえ辛い。
彼女はその日、フロッピィの事はひと言も口にしなかった。
僕はというと、気まずさを感じながらもやはり口にはできなかった。
そうした途端、彼女の触れてはいけない何かが溢れる気がしたからだ。
僕の知らない何か。
だけどとてつもなく厄介だという事は、何となく分かった。
彼女自身、お伽話の最初の滑りだしをどうやって扱うか持て余しているようにも見えたからだ。
どうした事か罪の意識はあまり感じられなかった。
もしかすると、僕は彼女の口から事の真相の一部始終を聞きたいと考えているのかもしれなかった。
目黒で過ごした夜の底に転がった、滑らかな彼女の背中。
僕はバッグの中身から逃げるように、彼女の細くて華奢な腕を求めた。
あの夜から僕は本当は知っていた。
薄々勘づいていた。
あの中身は僕には重すぎるんだって事。
そして彼女にとっても。
でも、僕はそいつをブートしてしまった。
どこかでカチリと音がして、不可視のサーボモータが静かに作動をはじめ、長い夜を巻き取ってゆく。
もちろん停止スイッチなんてない。
夜が巻き取られて消えてなくなってしまうまで機械の動作は続く。
その時僕はどこで何をやってるんだろうな。
少なくとも姫様は僕の側にはいない気がした。
頭が痛かった。
熱は酷くなる一方だった。
タクシーが見覚えのある郊外型ショッピングモールの入り口で小さく旋回して震えて止まる。
姫様は僕のためにレモンと蜂蜜と、それから何か細々とした雑貨を紙袋に詰めて戻ってきた。
それからショートケーキの小箱。
「この前手ぶらだったから」
と彼女は言った。
僕は鞄からクマを取り出して両手で支え、ぺこりとお辞儀させた。
彼女の気遣いには、ちゃんとお礼しなきゃいけない。
彼女はクマの頭を見て笑った。
新しい帽子。
ペプシのキャップ。
クマはちょっとした帽子コレクターになりつつある。
タクシーが玄関前に横づけして止まると、母が待ち構えいたように玄関から出てきた。
まるで僕の帰宅を知ってたみたいだ。
何でだろう?
僕は多分不思議そうな顔してたんだろう。
「ヒロのお母さんに電話で連絡しておいた」
と彼女は言った。
「二度も突然やって来るわけにはいかないんだし。お互い様でしょ」
と言って彼女は作ったような無表情になった。
彼女の顔から笑顔が消えるとひどく冷たく見える。
彼女は僕が見たフロッピィの事をほのめかした。
「ヒロのシステム手帳とケータイの中身ををすべて拝見しました。ヒロの住所と会社の住所。太田君の住所と、その他すべてのアドレス。重要なところは全部私のメモリに転載済みなんだから」
まぢですか。
すると、僕のお気に入りのパンチラサイトもバレたんだろうか。
って事は、本当は制服ミニスカ好きって事もバレたんだろうか。
飲んでる時に教えてもらい、確かURLを手書きで1ページに大きく書いたはずだ。
彼女ならURLを一度開いてみるくらいの事はやったかもしれない。
それからオタ。
ごめんよ。
お前の圧縮前の名まで知られてしまった。
僕は叱られた子供みたいに、シートで小さくなるしかなかった。
クマを握ったままなので余計間抜けに見えたはずだ。
母の小言が僕を捉える前に、2階自室へ急いだ。
姫様も心得てて、母の注意を自分に集め、いつの間にか台所へと2人で消えてしまった。
シャツを脱ぎ捨て、ネクタイを放り投げ、ユニクロのスウェットに着替える。
カーテンを開けると、灰色の沢山の雲に反射した光が部屋の中に溢れた。
よく晴れた日の日射しは部屋に暗い影をつくる。
曇った日の方が部屋の中は明るい。
均一にまわった光の中では、僕の部屋はあまりにも普通に見えた。
何の面白みもない、個性の欠片すらない仕事に忙しい独身男の部屋。
やたらと山積みになってる音楽CDも、沢山の雑誌も、音楽に造詣深いっていうよりは刹那的な趣味。
むしろオタクの嫌な臭いが漂ってきそうに見える。
ベッドに潜りこむと、僕は落ちるように眠った。
眠りに落ちながら、階下で姫様の笑う声を聞いた。
細くて高いのにちっともうるさくない。
子守歌には最適の音域。
その子守歌には間違いなく、僕を包みこんで落ち着かせてくれる魔法のような力があった。
眠りの導入をうながしてくれる、日なたの匂いにも似た清潔な安心感があった。
汗をかいていた。
夕食を運んできてくれた彼女の気配で目覚めた時、布団の中はもう病人の匂いに湿っていた。
彼女は僕の胸に、冷たいひんやりとした指先を置き
「ヒロかわいそう」
と言った。
「ごめんね。今夜はずっと一緒にいてあげるね」
と言った。
ごめんね、と謝るのは横須賀の夜の事かな、と思った。
そう聞いた時、僕は彼女が横須賀を訪れた事を、やっぱりちっとも後悔してなくて、満足しているんだと確信した。
だからここにいるよ。
ヒロのそばにいるよ。
そんな意味かなと思った。
本意が掴めず、いぶかって姫様を見つめると、自然に目が合った。
優しげなのに何となく怒ってる感じもする、カラコンでもないのに、うっすらとブラウンの混じった大きい瞳。
僕の知らない風景を沢山映してきたんだろうな。
渋谷の町外れのドラム缶と焚き火に燃え上がる、色んな欲望の光彩。
虹彩に刻まれた残酷な風景。
彼女は嘘を付いた。
あのフロッピィの中身はこれ以上ないくらいヤバい。
財宝の噂話とデリーって名の迷宮の地図。
そこへの片道切符。
彼女はインド門とローディ庭園で、同じ男を見かけたと言った。
彼女はそこでは観光客だった。
日本製デジタルカメラをぶら下げ、日焼け止めもバッチリに日本から初めてやって来た、ペダルタクシィと土産売りのいいカモ。
観光客がたまたま同じコースを辿る事はよくあるじゃないのかな。
彼女は首を左右に振った。
これはちっとも楽しい事じゃない。
男はインド人でクルターを着ていた。
下はデニム。
どうもしっくりこない。
目の前の風景に安心できるような自然さがない。
背筋が凍りついたと彼女は言った。
パスポートを作り直さなきゃ。
髪型も違えて…。
そこまで言って急に黙りこみ、甘えるみたいに僕にもたれかかった。
彼女を抱きしめて髪に触れると、彼女の唇から漏れるぶっそうな話が、まるでお伽噺みたいに聞こえる。
お伽噺の残酷さが、お話の中では正義にすり替えられるように、彼女の口調はあっさり僕を落ち着かせる。
「カナ平気かなぁ」
目を閉じたままそう言った彼女は
すぐに寝息をたてはじめた。
よほど疲れてたんだろうな。
彼女をベッドに寝かしつけた後、しばらくぼけっと暗闇の中に佇んでいた。
彼女の言った事を頭の中で反芻して、考えがまとまるまでは彼女のそばにいた。
彼女は何故かうつ伏せで眠る。
深い眠りがやってくるまでその状態で腕を曲げ、中指の背に唇をくっつけて眠る。
形の良いおでこをつつくと、眉間にシワを寄せてむづがる。
子供みたいだ。
彼女の手首をそっと握ってみる。
反応はない。
僕はライティングデスクの明かりだけつけてPCを起動した。
さすがはいいホテル。
DELLのノートまで備え付け。
初めて触る型は文字が打ちづらくて肩が凝るけど、今夜は気分がよかった。
今夜の僕は1人じゃない。
彼女の寝息、僅かに上下するリズムを感じる事ができる。
僕はオタにメールした。
彼女の告白を疑ったわけじゃないけど、その背景が知りたかった。
そんなものがもしあれば、だけど。
帰国しない日本人女性の事。
理由や原因はなんでもいい。
年間どのくらいの数になるのかそれだけでもいい。
普通の人には彼女の話は荒唐無稽だ。
だけどそこに秩序を与えて真実かどうか判断できる奴だっている。
そいつは僕の友人だったりする。
オタは動く闇、日々更新される情報の番人だった。
アンダーワールドの。
オタは芸能人とかプロ野球の試合結果とかロックにはまったく無関心だけど、どこかの自殺志願者にせっせとメールを送ったり、大阪の町工場のアドレスを元にどのくらいの資材が動いたかとか、そんな調査には余念がない。
オタは部屋から出ず、かつ餓死する事もない。
それどころか身だしなみにはうるさかったりする。
このふざけた矛盾。
普段外出しないオタが運動靴を欲しがるのは皮肉な事だ。
そのコレクションは本人によるとかなり凄いらしい。
オタは一銭にもならない個人的なハッキングやクラッキングには興味がない。
オタは情報の流れの中に眠る砂金を拾う。
つまり、ヒキのくせに僕よりはリッチだって事。
やつが見守るデータはかなり信頼できるって事だ。
メールを送信してタバコに火をつけ、彼女の寝顔を見てたら無性にコーヒーが飲みたくなった。
ルームサービスを呼びだし注文を聞いてもらって、届くまで5分もかからなかった。
ドアがノックされるのとほとんど同時だったかな。
オタがレスをくれたのは。
「すぐに調べてみる。その前にこんな話なら聞いた事がある。CBSの60ミニッツでも取り上げられたほど厄介な事件だよ。旅行先でたまたま知り合った現地の人間に旅行費用を出してあげる代わりに君の国に住んでる依頼者の家族に荷物を届けて欲しいとか何とか頼まれる。なんてラッキーなお話。ところが荷物の中身は白い粉。甘言に釣られて荷物を運ぶと運悪く空港のセキュリティにひっかかってそのまま牢獄へ直行。二度と出国できない。裁判もない。牢獄で自殺した白人女性はかなりの数に上るって話だ。ただ、嬢様の場合はちょっと複雑だな。日本人だし。フロッピィの中身から推察すると、彼女は何かを運んでるみたいだけど薬物とかそんな分かりやすいものじゃないような気がする。とにかく一晩欲しい。分かる事は全て教える」
おまえは物知りだな。
オタ。
でも何だか楽しくないよ。
愉快な話を期待してたわけじゃないけど。
彼女と出会っていくつめの朝だったのかもう憶えてない。
午前中にホテルを出て2人で恵比寿駅まで歩き、僕は会社へ、彼女は渋谷へ戻っていった。
今夜は遅くなりそう。
そう言ったのは彼女の方だった。
お土産の包みを絶対になくさないように。
それから今夜もここへ戻ってきて欲しいと。
会社での僕は死んでいるようなものだった。
体調が悪いと会議をすっぽかし、近くの公園で眠り、オタからケータイとPCに送られてきたメールを確認した。
オタは一晩待ってほしいといったけど、全くお手上げな状態らしく、とにかく時間がもっと必要だと繰り返した。
公園の午後はのどかだった。
以前ならベンチに腰掛けて放心しているリーマンを理解する事はなかった。
だけど今の僕は完璧なそのコピペだ。
鳩が群がってきては飛び立ち、頭上を旋回してまた舞い戻ってくる。
どうしようもなく平和な風景。
ところがその裏側では正確に巻き取られてゆく夜がある。
それはつねにセットで裏と表の絵柄がまったく違うトランプのカードみたいだ。
表はきっちり格子の決まりきった退屈な幾何模様。
裏は欠けた月。
ジョーカー。
日が落ちるまえに渋谷へ向かった。
恵比寿の隣だから、その気にさえなれば歩いてホテルへ戻る事もできる。
僕は西武デパートの1階フロアをぶらぶらうろつき、気紛れでミツコゲランを1つ買った。
いかにもな仰々しいデザインの瓶。
コピーを読んでみると、生産開始から80年が経過と書いてあった。
姫様の年で使うにはちょい早いのかもな。
一度だけ姫様がその瓶をホテルの洗面台シンクの縁に放ってたのを見た事がある。
他の色んな化粧品に混ざってた。
そんな光景が目に入ってくるのは嫌いじゃなかった。
姫様がそうやって自分の周りに撒き散らした風景。
椅子の横に立てかけたブーツ。
ベッドに置かれたコートとミニスカート。
目黒のホテルでまき散らされたバッグの中身は中でも印象的だった。